金剛寺村(読み)こんごうじむら

日本歴史地名大系 「金剛寺村」の解説

金剛寺村
こんごうじむら

[現在地名]辰口町金剛寺

坪野つぼの村の西、能美丘陵中央部に位置し、南は鍋谷なべたに村、北は莇生あんぞ村。地名は当地にあった能登総持寺派の曹洞禅寺金剛寺(金剛院)に由来する。中世和気わけ保に含まれた。康暦二年(一三八〇)四月一日の尼宗妙等寄進状(大徳寺文書)に、長野田ながのだ中野田なかのだ(現小松市)にあった長福ちようふく寺領として「わけのこんかうしのしんミやう」がみえ、同寺別当尼宗妙は金剛寺の新名などを大禅寺(所在地不明)の璧峯崇徳に寄進している。「蔭涼軒日録」長禄二年(一四五八)八月四日条によれば、「和気保金剛寺村」内の甕与三入道跡が、嘉吉元年(一四四一)以来金剛院(当地金剛寺のことか)によって押領され、京都南禅寺徳雲院の寮舎宝諸軒が知行できなくなったと幕府に訴えている。


金剛寺村
こんごうじむら

[現在地名]田原本町大字金剛寺

曾我川東岸にあり、北は松本まつもと村。環濠集落。古く永延三年(九八九)の太政官符案(色川本栄山寺文書)に「栄山寺田畠等事、十市郡捌町参段陸拾歩、四至東限畔、西限河、南限卯酉畔、北陸近江河」と、栄山えいさん(現五條市)領のことがみえる。その条里(括弧内は坪数)は西一六条五里(六)、一七条五里(六)で、当地に比定される。保元元年(一一五六)の官宣旨案(同文書)には「左弁官下大和国、応任度度官符、令栄山寺領掌宇智・十市・広瀬等郡田地事」とあり、栄山寺田の領掌の崩壊化がうかがえる。


金剛寺村
こんごうじむら

[現在地名]豊岡市金剛寺

山本やまもと村の東、円山まるやま川の支流金剛寺川の谷に立地。北は宗詮そうせん峠を経て畑上はたがみ村、東は河梨こうなし峠を経て丹後熊野くまの郡河梨村(現京都府久美浜町)に達する。村名は真言宗の古刹金剛寺が所在することに由来し、周辺に正覚寺しようかくじ仁花寺にんがじおくぼうどうだに上権現かみごんげんなど、金剛寺の支院であったと伝える諸施設の名をとる小字名が連続する。文明三年(一四七一)成立の「大須賀時基郡境記」に「丹後と但馬との境は(中略)こんごうじの頭は三つをかぎり」とある。


金剛寺村
こんごうじむら

[現在地名]春江町金剛寺

安沢やすさわ村の東にあり、集落九頭竜くずりゆう川の支流磯部いそべ川の南岸に沿う。中世は春近はるちか庄の地。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「針近之郷」に含まれる。村名は寛永元年(一六二四)七月一五日付の越前国府中三国領知行帳(佐久間家旧蔵文書)に三国領として記される。


金剛寺村
こんごうじむら

[現在地名]彦根市金剛寺町

ほり村・普賢寺ふげんじ村の南に位置。慶長高辻帳に村名がみえ高三二三石余。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によれば定免で六ツ一分。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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