府中町(読み)ふちゆうまち

日本歴史地名大系 「府中町」の解説

府中町
ふちゆうまち

日野川の西岸、武生盆地の中央にあり、中世には越前国守護所・朝倉氏府中奉行所が置かれ、近世には福井藩の国家老本多氏の城下町として発達した。

〔中世〕

古代よりの国府も、鎌倉時代以降その機能を失うが、越前の政治的中心地としての地位は変わらなかった。鎌倉時代の越前国守護所がどこであったかは不明だが(足羽郡北庄すなわち現福井市ともいわれる)室町幕府の守護所は当地に置かれ、府中とよばれるようになった。「太平記」巻一八(越前府軍并金崎後攻事)に「越前ノ府」とあり、この地に新善光寺しんぜんこうじ城が築かれて斯波高経が立てこもったとあるが、この時点では府中の呼称は認められず、「経覚私要鈔」の康正三年(一四五七)七月八日条に「甲斐請文自斎尊僧都所下給了、細呂宜公文・政所請文也、於補任料者、申付府中両人之間、近日可沙汰云々」とあるのを初見とする。室町幕府の越前守護所の定置によって府中の呼称が一般化したものであろう。

朝倉氏時代に入ると、府中は史料に頻出する。「大乗院寺社雑事記」文明一二年(一四八〇)八月三日条の挿図中にみえる府中守護所は、朝倉孝景の越前平定工作のなかでその弟慈視院光玖の支配下に入り、続いて朝倉氏の家臣、青木・印牧両氏の世襲による府中両奉行人が置かれた。府中の魚問屋に伝来したと伝えられる次の朝倉孝景裁許状(岡田家蔵)によって、当時の府中における商業活動の一端が知られる。

<資料は省略されています>

府中には寺院も多く、その占める寺域も広大である。寺院の多くは鎌倉・室町期に創建されており、各宗派の高僧が政治の中心地である府中で布教し、その足跡を残した。正徳元年(一七一一)府中惣絵図によれば一万二千坪の竜泉りゆうせん寺を筆頭に正覚しようがく寺の六千七〇〇坪、引接いんじよう寺の六千二〇〇坪、このほか一千坪以上の寺域を有する寺院は金剛こんごう院・竜門りゆうもん寺・本興ほんこう寺など十数ヵ寺があり、竜門寺・正覚寺・金剛院などは中世の城館にも利用されてきた。このような寺院の存在はその門前町と商工業の発達とが相まって府中にいっそうの繁栄をもたらした。

儒者清原宣賢は都から朝倉氏の一乗谷(現福井市)に来住したが、その孫枝賢は天文一二年(一五四三)北国見物を兼ねて一乗谷を訪れ、同五月には府中で惣社そうじや大明神の祭である府中祭を見物している(「天文十二年記」舟橋家蔵)

天正元年(一五七三)八月朝倉義景の滅亡後、織田信長に帰順した富田長繁が府中に居館したが、翌二年一向一揆の蜂起によって越前が本願寺の領国化すると、信長はその平定のため同三年再び越前に兵を進めた。


府中町
ふちゆうまち

[現在地名]久留米市御井町みいまち御井朝妻みいあさづま一丁目・御井旗崎みいはたざき二―五丁目・朝妻町あさづままち

耳納みのう山地西端の高良こうら山の西麓に位置し、西は野中のなか村に接する。横道よこみち遺跡群のほか縄文時代から中世にかけての複合遺跡として神道しんどう遺跡や二本木にほんぎ遺跡がある。地名は延久五年(一〇七三)以後に筑後国府が朝妻から「今の府」(横道)に移ったことに由来するとされ(高良玉垂宮神秘書)、中世にかけて政治・流通の要所であったと考えられる。「高良玉垂宮神秘書」によれば、「府中ノ間ノ座ノ衆」らが鳶の尾の神人を勤めたという。同書に朝妻七社とあり、「アサツマ」に在国司の居屋敷一二町があった。現高良大社の参道口にあたり、近世には薩摩街道・日田街道筋の宿駅であった。文禄二年(一五九三)三月一八日の高良社神職名知行所数注文写(高良山文書)に「符中」とあり、大祝領一〇町・座主領一八町、明浄みようじよう院領五町が置かれていた。

本高は一千四二二石余で(元禄国絵図)、高良山神領五五四石余を含む(「元禄記」新有馬文庫)。「在方諸覚書」では古高一千一四〇石・役高八〇四石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高八〇四石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田二九町二反余・畑田五反余・畑四三町三反余・居屋敷九反余。


府中町
ふちゆうまち

[現在地名]七尾市府中町・作事町さくじまち

御祓みそぎ川の河口東岸に位置し、北は七尾湾に面する。南側は内浦街道を挟んで作事町・檜物ひもの町・大手おおて町、東は海岸近くで神戸かんべ川が東地子ひがしじし町との境をなす(所口地図)。府中村の地を割いて町をつくったという(能登志徴)。慶長元年(一五九六)伏見ふしみ(現京都市伏見区)にいて地震にあった前田利家に見舞いをし、その礼状の宛所に「所口府中町」とあり(府中町文書)、元和二年(一六一六)の所之口町絵図には「府中」とあって、その後も府中・府中町と混用された(「能府山王大祭礼御定式」大地主神社文書)

元和六年に四十物船役は白銀三枚運上と定められ(「四十物御印」府中町文書)、承応三年(一六五四)の小物成銀一貫四四六匁余、歩数五八一歩余、地子銀八七匁余(「町御印」同文書)。浦役銀は石高二三石余に対し六四六匁余で(延享二年「御代覚書」税務大学校所蔵文書)、文政八年(一八二五)に浜地新屋敷分一八九匁余・印鑰いんにやく社移転跡地分一八匁余が加わる(「浦役上納高調理帳」山崎文書)


府中町
ふちゆうまち

[現在地名]松山市木屋きや町の一部と若草わかくさ

松山城下町の西部にあり、ほん町の通りと平行してその東側を南北に通ずる町筋。北城濠から起こり、北走して畳屋たたみや(東西の道)と交差し、それ以北は和泉いずみ町・北新萱きたしんかや町となる。この辺りから西に折れ曲がって三津みつ道に通ずる。町名の初見は寛永一二年(一六三五)の松山城下町図。元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)の「古町分三拾町」のなかに府中町一丁目・同二丁目とある。町名の由来は町奉行所などがあったことによる。古くは御奉行町といったと伝えられる。


府中町
ふちゆうちよう

面積:一〇・二七平方キロ

四周を広島市に囲まれた安芸郡北方の飛地で、ほぼ南北に延びる町域の北東部は、呉娑々宇ごさそう(六八二・二メートル)から南西に広がる丘陵性山地で、北に高尾たかお(四二四・五メートル)、東に茶臼ちやうす(二七一・四メートル)がそびえる。西南部は猿猴えんこう川左岸の沖積平地で、町域西縁近くを温品ぬくしな川、中央部をその支流榎木えのき川が流れる。また南縁近くには山陽本線が走り、その南側には平行して国道二号が通る。

古代には安芸国国府が置かれ、式内社多家たけ神社や、大同元年(八〇六)弘法大師の開基と伝える道隆どうりゆう寺が残るなど、古くから安芸国の中心地で、海陸両路の要衝とされた。


府中町
ふちゆうまち

[現在地名]福山市城見しろみ町一―二丁目・大黒だいこく

鍛冶屋かじや町の北に続く両側町。城下町形成時、府中(現府中市)より長野与一郎という者が来住、多くの借屋をつくり、郷里の名をとって名付けたのに始まるという。長野氏は中世に芦田あしだ久佐くさ(現府中市)の楢崎氏の郎党で、楢崎氏没落後府中に住したと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「府中町」の意味・わかりやすい解説

府中〔町〕
ふちゅう

広島県南西部,広島市に囲まれた町。 1937年町制。古代安芸国国府の所在地で,町名もそれに由来する。 1920年代後半に自動車・ビール醸造工場が進出し,第2次世界大戦後は特に自動車関連工場が集中し,自動車工業の町となった。低地はもとより,東部丘陵地まで住宅地が広がり,広島市街地と連続する。面積 10.41km2。人口 5万1155(2020)。

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