日本歴史地名大系 「府中町」の解説
府中町
ふちゆうまち
- 福井県:武生市
- 府中町
〔中世〕
古代よりの国府も、鎌倉時代以降その機能を失うが、越前の政治的中心地としての地位は変わらなかった。鎌倉時代の越前国守護所がどこであったかは不明だが(足羽郡北庄すなわち現福井市ともいわれる)、室町幕府の守護所は当地に置かれ、府中とよばれるようになった。「太平記」巻一八(越前府軍并金崎後攻事)に「越前ノ府」とあり、この地に
朝倉氏時代に入ると、府中は史料に頻出する。「大乗院寺社雑事記」文明一二年(一四八〇)八月三日条の挿図中にみえる府中守護所は、朝倉孝景の越前平定工作のなかでその弟慈視院光玖の支配下に入り、続いて朝倉氏の家臣、青木・印牧両氏の世襲による府中両奉行人が置かれた。府中の魚問屋に伝来したと伝えられる次の朝倉孝景裁許状(岡田家蔵)によって、当時の府中における商業活動の一端が知られる。
府中には寺院も多く、その占める寺域も広大である。寺院の多くは鎌倉・室町期に創建されており、各宗派の高僧が政治の中心地である府中で布教し、その足跡を残した。正徳元年(一七一一)の府中惣絵図によれば一万二千坪の
儒者清原宣賢は都から朝倉氏の一乗谷(現福井市)に来住したが、その孫枝賢は天文一二年(一五四三)北国見物を兼ねて一乗谷を訪れ、同五月には府中で
天正元年(一五七三)八月朝倉義景の滅亡後、織田信長に帰順した富田長繁が府中に居館したが、翌二年一向一揆の蜂起によって越前が本願寺の領国化すると、信長はその平定のため同三年再び越前に兵を進めた。
府中町
ふちゆうまち
本高は一千四二二石余で(元禄国絵図)、高良山神領五五四石余を含む(「元禄記」新有馬文庫)。「在方諸覚書」では古高一千一四〇石・役高八〇四石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高八〇四石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田二九町二反余・畑田五反余・畑四三町三反余・居屋敷九反余。
府中町
ふちゆうまち
元和六年に四十物船役は白銀三枚運上と定められ(「四十物御印」府中町文書)、承応三年(一六五四)の小物成銀一貫四四六匁余、歩数五八一歩余、地子銀八七匁余(「町御印」同文書)。浦役銀は石高二三石余に対し六四六匁余で(延享二年「御代覚書」税務大学校所蔵文書)、文政八年(一八二五)に浜地新屋敷分一八九匁余・
府中町
ふちゆうまち
府中町
ふちゆうちよう
府中町
ふちゆうまち
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報