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大日本青少年団 だいにほんせいしょうねんだん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大日本青少年団
だいにほんせいしょうねんだん

1931年1月大日本連合青年団大日本連合女子青年団大日本少年団連盟,帝国少年団協会の4つを統合して結成され,文部大臣の統轄下におかれた団体。本部は東京,明治神宮外苑の日本青年館。男女青少年に対して皇国の道にのっとって団体的実践鍛練を施し,確固不抜の国民的性格を錬成し,戦争遂行の国策に協力することを目的とした。国民学校 3年以上青年学校生徒までが団員であった。行政機構に対応して道府県-都市区-町村という系統的組織網を編成し,それぞれの長が団長となった。 45年5月の「戦時教育令」による学徒隊編成方策に応じて同年6月解散。

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世界大百科事典 第2版の解説

だいにほんせいしょうねんだん【大日本青少年団】

太平洋戦争直前の1941年1月16日に大日本連合青年団,大日本連合女子青年団,大日本少年団連盟,帝国少年団協会の4団体を統合して結成された団体。それまで四つの団体が,一応国家とは一線を画し,独自の活動を行っていたのに対し,大日本青少年団は一貫して国家の強い指導の下に置かれ,新体制への即応,国家統制の強化が唱えられた。すなわち,団長には文部大臣が,地方団の団長には地方長官が,単位団長も原則として青年学校長,小学校長がそれぞれ就任し,全国の青少年(国民学校初等科3年から25歳まで)が国家のもとに統制された。

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世界大百科事典内の大日本青少年団の言及

【子ども会】より

…明治末期から大正時代にかけて,資本主義経済の発展にともなう地域社会の変化と学校の校外指導の強化により慣習的な子ども集団は衰退するが,宗教団体による日曜学校の普及やボーイ・スカウトピオネールなど目的的な少年団体,組織が紹介される中で,子ども会に対する教育・文化面での意義が自覚された。しかし,軍国主義の台頭とともに,1932年文部省訓令〈児童生徒ニ対スル校外生活指導ニ関スル件〉によって小学校を単位とする学校少年団づくりが促進されたため,自由で多様な子ども会の性格は失われ,41年には大日本青少年団へと一元的に統合された。 戦後,焼け跡の子どもたちを守り育てる運動の中でふたたび多様な子ども会が復活し,アメリカ占領軍による指導者講習会を通じてグループ・ワーク理論やレクリエーション技術が紹介され一段と活発化した。…

【少年団】より

…また昭和初年にはソ連のピオネールの影響を受け,小作争議や労働争議のなかで労農少年団や無産少年団が組織されるとともに,水平運動のなかでは少年水平社がつくられ,反権力の運動が展開された。しかし満州事変以降国家の統制が強化され,32年の文部省訓令により学校少年団づくりが始まり,41年にはすべての青・少年団が解散・統合されて大日本青少年団に一元化された。第2次大戦後は47年にボーイ・スカウト日本連盟が再建され,51年には日本海洋少年団連盟が,61年には日本スポーツ少年団(スポーツ少年団)が発足した。…

【ボーイ・スカウト】より

…日本には明治末年〈少年義勇団〉の名で紹介され,小柴博による東京少年団(1913),三島通陽(みちはる)による弥栄ボーイスカウト(1918)などが作られ,1923年に後藤新平を総裁とする少年団日本連盟が結成された。太平洋戦争中は解散され大日本青少年団に統合されたが,49年ボーイスカウト日本連盟として再建,今日に至っている。 ボーイ・スカウトの組織は,日本においては,年齢別にカブ・スカウト(小学校2年生の2学期以降),ボーイ・スカウト(小学校5年生の9月以降),シニア・スカウト(15歳以上または中学校3年生の8月以降,18歳未満),ローバー・スカウト(18歳以上)に分けられ,世界共通の〈ちかい〉と〈おきて〉に基づいて行動する。…

※「大日本青少年団」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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