地域社会の生活を基盤にして結成された青年団体をさす。「青年会」の語は1880年(明治13)東京基督(キリスト)教青年会(YMCA)結成に際して用いられた。その後、かつての若者組から脱皮した有志の集団としての青年会が各地にみられるようになったが、山本滝之助(1873―1931)が自著の『田舎青年』(1896)で青年会づくりを提唱して以後、普及した。1910年(明治43)名古屋で全国青年大会が開かれ、「青年団規十二則」などが議せられてから、「青年団」の呼称がしだいに優先することになった。当初、その目的は、若者の間の旧弊を打破して文明開化の路線を導入することにあった。日清(にっしん)・日露の両戦争の銃後活動などを経て、国や郷土を担う青年の任務が強調された。青年団の活動に注目した内務省は、地方自治振興や産業振興のため、また、青年のための実業補習学校を制度化した文部省は、その制度補強のため、1905年(明治38)には並行して、1915年(大正4)には共同で、青年団体育成に関する訓令を出した。
1921年(大正10)、全国の青年団員の醵金(きょきん)で内務・文部両省関係法人「日本青年館」(現東京都新宿区霞岳(かすみがおか)町)が設立され、翌年、名古屋での大会によって全国組織「大日本連合青年団」が結成された。一方、内務省の庇護(ひご)のもとで1905年(明治38)設立されていた教化団体の中央報徳会に設けられた青年部が、1916年(大正5)「青年団中央部」と改称され、全国の青年団活動の中央拠点とされた。このころの青年団の主たる目的は、自主的な修養・奉仕団体の性格をもっていたといえよう。しかし、その後、徐々に軍国主義体制の強化とともに変質させられ、内務省を辞して青年団振興に尽力した田澤義鋪(よしはる)(1885―1944)や田澤に請われて青年団講習所所長を務めた下村湖人(しもむらこじん)らの自主自由への努力にもかかわらず、青年団は結局戦争協力団体と化していった。1941年(昭和16)には女子青年団その他とともに「大日本青少年団」へと統合され、第二次世界大戦末期にはそれも解散させられた。
大戦後はいち早く女性も加わった「地域青年団」として再生し、1951年(昭和26)には全国組織「日本青年団協議会」(日青協)が結成された。日青協は働く青年たちの教育のあり方を討議し、「共同学習」の理論を生み出し、青年の日常生活の課題を取り上げる学習を全国に展開させていった。また、沖縄返還運動や日中国交正常化に向けた中国青年との交流、原水爆禁止運動などにも積極的にかかわった。こうした運動を受け、地域レベルでも封建的な慣習を変えたり、地域の政治の民主化を図ったりといった実践が全国各地で生まれた。
一方、1960年代から始まった高度経済成長は青年の都市集中に拍車をかけ、農村を基盤とした青年団運動に大きな打撃を与えるとともに、全国的な青年団員数も激減させたが、地域を基盤にした自主的な組織としての活動を模索し、各地で地道な活動を展開・発展させている。
とりわけ、1990年代以降は子供や高齢者とかかわる活動を展開して世代間交流を進めたり、農村での若い女性の地位向上や結婚問題に関する取り組みなどを展開して注目を集めている。また、毎年、青年問題研究集会を開き、レポートに基づいて話し合うほか、11月には全国青年大会を開催し、地域で日常的に取り組まれているスポーツ・文化活動の集約の場としている。
日青協は日本青年館(財団法人)を拠点とし、最盛期にはここに結集する地域青年団員は100万人を超えていたが、2009年(平成21)現在、東京都、埼玉県、富山県、兵庫県などを除く全国の道府県に組織があるものの、団員は20万に満たない状況にある。しかし、日本最大の青年団体であることには変わりはなく、また未加盟の地域青年団もある。
[藤原英夫・上杉孝實]
『『大日本青年団史』(1942・日本青年館)』▽『『青少年団体史』(1969・中央青少年団体協議会)』▽『『大日本青少年団史』(1970・日本青年館)』▽『『日青協の30年――運動の見解と態度』(1982・日本青年団協議会)』▽『『地域青年運動50年史』(2001・日本青年団協議会)』
青年の生活を基礎にして結びついた青年の地域集団。社会教育関係団体でもある。青年会ともいう。
前身は,日本の村落に近世以来存在していた若者組,娘組である。これらは,祭礼や消防,農作業の管理,婚姻の統制など,村落の共同体機能を担いながら,青年を一人前に育てる役割をもっていた。しかし,明治期になり近代国家が成立すると,旧来の悪弊と非難されたり,行政の確立によって若者組,娘組の共同体機能はせばめられ形骸化した。明治10年代から20年代にかけて,青年の学習組織である夜学会や小学校の同窓会を母体として青年会が組織されはじめた。青年団の父といわれた山本滝之助は,この動きに着目し徳富蘇峰の青年会論の影響もうけ,1890年〈青年会ノ起ランコトヲ望ム〉を起草し,さらに96年《田舎青年》を書き,教育,文化にめぐまれない地方の農村青年が青年会をつくる必要を力説した。山本滝之助の主張と日清戦争時の青年会の銃後活動に着目した政府は,1905年内務省地方局長通牒〈地方青年団体向上発達ニ関スル件〉を出し,青年会の奨励を行った。その結果,明治末には小学校長や地方名望家層の指導によって村落の全青年を網羅した青年会がつくられるようになった。
政府は,第1次世界大戦後本格的に青年会の統制にのりだした。内務,文部両省の共同訓令が,15年,18年,20年の3次にわたって出された。これらは,45年までの青年会のあり方を規定したもので,青年会を修養団体とし,義務教育修了後から満20歳までの勤労青年を町村を単位として組織し,指導者には小学校長や町村長がなるものとした。これらには,プロイセンの青年教養政策の影響をうけ,徴兵年齢までの青年に軍事的訓練を施そうとする陸軍省の意図が強く反映していたが,実際には25歳以上の青年をも組織していた。青年団の全国組織としては,1924年大日本連合青年団がつくられた。女子青年の場合は,男子とは別に処女会という名称で組織され,27年に大日本連合女子青年団がつくられた。このように,青年会は政府の指導と統制によって組織されたため,官製青年会と呼ばれた。しかし,一面では青年会は農村青年にとって学習の場であり,唯一の娯楽の場でもあり,村落にとっても共同事業を担わせ青年を一人前に訓練する組織として必要であった。1920年前後から,大正デモクラシーの影響をうけ,官製青年会に反対し,青年の手による青年会をつくる青年会自主化運動が長野県を中心にしておこり,青年会を官僚統制から解放する努力が33年ころまで続けられた。戦時体制下の41年には少年団体とともに大日本青少年団が結成されたが,45年本土決戦にそなえた戦時教育令によって大日本青少年団は解散された。
第2次大戦後の青年団は社会教育関係団体として行政から補助金をうけているが,自主性を確保することに力を注ぎ,勤労青年の自主的な集団として運営されている。50年代には生活記録運動や共同学習運動にとりくみ,また沖縄返還や北方領土返還,原水爆禁止の運動にとりくんできた。60年代以後,農業青年の激減,青年の賃労働者化によって,農村を基盤としていた青年団は団員が減少しているが,地域の勤労青年の自主的な集団としてスポーツや演劇などのレクリエーション・文化活動,さらに公害問題や奉仕活動など地域の課題にとりくむ活動が行われている。全国組織として,1951年に結成された日本青年団協議会(略称,日青協)があり,55年から年1回全国青年問題研究集会が催され,青年団活動の交流や研究が行われている。近年は脱農化にともない会員数が減少し,79年時点で約38万人が加盟していたが,96年には約20万人になっている。
→社会教育 →青年運動 →青年学級
執筆者:大串 隆吉
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…近年は,公立施設の運営や事業の企画・実施に住民参加をとり入れ,受動的な利用でなく,活動内容の自主的創造をめざす動きもすすんでおり,体育施設においても,指導サービスや自主グループ育成がこころみられているが,他方,青少年の団体活動訓練の場としての性格をもった青年の家,少年自然の家もある。団体による社会教育活動は,もっともひろくみられる活動であって,小規模のグループ,サークルから地域,都道府県,全国それぞれに基盤をもつ婦人会,青年団,子ども会やスポーツ組織,PTA,そのほかの教育文化団体にいたるまで多様なものがあり,その規模,形態,内容を問わず自由で自主的な活動が期待されている。学校開放事業は,労働者の自己教育運動と結びついて発展をみせたイギリスの大学開放事業や,地域と結合して実学的な性格をもつコミュニティ・カレッジを発展させたアメリカの例などに比して,日本の経験は乏しい。…
…イタリアではファシスト政権下でバリラBalillaという青少年の組織をつくり,1926年にこれを法制化した。ソビエトでは1918年にコムソモール(全ソ連邦レーニン共産主義青年同盟,Komsomol)が法制化され,中国でも1920年に社会主義青年団(1925年共産主義青年団,57年中国共産主義青年団と改称)が組織され,共産党や政府の指導のもとで活動している。第2次大戦後になると,社会の国際化にともなって,青年運動にも国際的青年組織が結成された。…
…そのため,それに代わって町村によって青年学級とか青年学園とか名づけられた教育事業が行われた。青年学級振興法は,これらの教育事業を奨励する目的をもっていたが,勤労青年に後期中等教育の機会を保障するものではなかったし,運営に枠をはめたため,日本青年団協議会は青年学級振興法に反対し,〈基本的人権に立脚したものであること〉〈教育の機会均等の原則をつらぬくものであること〉〈不当な統制的支配や政治的干渉を受けないものであること〉〈平和のために努力する青年をつくる教育であること〉などからなる10項目の〈勤労青年教育基本要綱〉を発表した。そして,青年の自主性をそだて,共同で問題を発見し解決するための共同学習運動を提起し,全国の青年団でとりくみ,生活記録運動とともに青年学級の運営に少なからぬ影響を与えた。…
…1925年に結成された青年団の全国組織で,39年大日本青年団に改組されるまで続いた。政府が,全国につくられた官製青年会を全国組織に統合することによって,全国の勤労青年の教化を統轄するためにつくった組織である。…
…なお,若者組が文献史料に登場するのは江戸時代の初期以降のことであり,これは郷村制の成立との関連を思わせるが,さらに古くから存在していた可能性も否定できない。明治時代になると,若者組とその諸慣習は陋習(ろうしゆう)として識者からの指弾を受けるところとなり,中期ごろからしだいに青年会や青年団へと改組・改称されていった。年齢集団【平山 和彦】。…
※「青年団」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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