町村(読み)チョウソン

デジタル大辞泉 「町村」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐そん〔チヤウ‐〕【町村】

町と村。特に、地方公共団体としての町と村。

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精選版 日本国語大辞典 「町村」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐そんチャウ‥【町村】

  1. 〘 名詞 〙 町と村。特に、地方公共団体である町と村。
    1. [初出の実例]「各町村租税割附帳を作り、以て租税催徴の拠となすなり」(出典:明六雑誌‐一七号(1874)財政変革の説〈神田孝平〉)

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日本歴史地名大系 「町村」の解説

町村
まちむら

[現在地名]余目町余目

庄内平野の中央、最上川と京田きようでん川に挟まれた平坦地に位置し、北東は廿六木とどろき村、西は興屋こうや村、南東は朝丸あさまる村、南西に南口みなみぐち村がある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録や正保郷帳では町・南口・興屋・朝丸の四村を一括して館廻たてまわり、承応四年(一六五五)の北楯大堰水系図(滝沢神社蔵)では町・興屋二ヵ村を館廻北口たてまわりきたぐち村とし、ほかに余目町村・余目村とも記されることもある。海辺あまべ余部あまるべ郷は当村を中心とする一帯と考えられる。建武三年(一三三六)一二月一一日の足利直義下文(安保文書)に「海辺余部内宗太村」とみえ、安保光泰に地頭職が安堵されている。暦応三年(一三四〇)正月二四日の安保光泰置文(同文書)では、嫡子泰規に「余部内余部郷・惣太郷」が譲られ、同年八月二二日付の光泰の置文(同文書)でも同じことが記される。宗太そうた村・惣太そうた郷は同所をさし、当地沢田さわたに比定されている(「余目町史」など)

酒井氏知行目録では余目館廻村高六六四石余、寛永元年庄内高辻帳では館廻とあり高一千五七六石余、寛永三年庄内高辻帳では余目館廻村高一千六〇二石余。正保郷帳では田方一千二石余・畑方六六九石余・寺社領六石余。天和二年(一六八二)酒井忠高への分知時の村高(鶏肋編)では町村高六一三石余。元禄九年(一六九六)幕府領、天明四年(一七八四)から同四年まで松山藩領、元治元年(一八六四)庄内藩領。


町村
まちむら

[現在地名]大内町岩谷町いわやまち

いも川の下流右岸に位置する平坦村で、北は岩谷麓いわやふもと村、西は米坂よねざか村・中館なかだて村に接する。岩谷町村ともいった。

天正一一年(一五八三)一月二四日付の小介川図書助宛愛季軍忠状(秋田藩家蔵文書)に「岩屋町破候刻、敵討捕働無比類候」とある。また同一八年一二月二四日付の豊臣秀吉朱印状(岩屋文書)に「出羽国油利郡内岩屋村八百四拾五石七斗三升(中略)事令扶助訖、全可領地候也」とあり、あて先は「岩屋能登守との」とある。この頃、岩屋いわや村は由利五人衆の一人岩屋氏の本拠地であり、ここで記される岩屋村は、村高の大きさから岩谷麓村・町村を併せたものではないかと思われる。慶長一七年(一六一二)の進藤但馬守某日野備中守某連署状には、岩屋領一五ヵ村中の一村として岩谷麓村とともに名を連ねている。


町村
まちむら

[現在地名]志賀町町

川尻かわしり村の西に続き、日本海に面する。初め加賀藩領。土方雄久知行目録に「安部屋町」とみえ、慶長一一年(一六〇六)村高のうち三二一俵余が土方領となり、うち六割が百姓取分であった。残る加賀藩領の元和二年(一六一六)の高一〇〇石(「苦竹運上極」雄谷文書)。土方領は貞享元年(一六八四)から幕府領、元禄二年(一六八九)から鳥居忠英領、同八年から再び幕府領となり、享保七年(一七二二)加賀藩預地となったが、天明六年(一七八六)加賀藩領に組入れられ、以後全村加賀藩領。古くは安部屋あぶや村の内で能登守護畠山氏家臣平式部太夫の城下町であったが、のちに同村から独立して安部屋町村になったと伝える(「平家由緒書上帳」平文書)。江戸時代初期の年貢皆済状(同文書)には安部屋町村・町村の村名が混在するが、寛永二〇年(一六四三)以降、単に町村とよばれるようになる。


町村
まちむら

[現在地名]養父町建屋たきのや

もり村の南に位置する。建屋谷の中心に位置する当地は、中世には建屋庄の中核となり発展、戦国時代には建屋城の膝下として町場も形成されていたと考えられる。こうした性格は近世にも引継がれ、建屋谷の経済や商業の中心地として繁栄した。江戸時代は幕府領(寛永一六年知高帳・宝暦七年但馬国高一紙、「但馬国高附郡訳手控」岡田家文書など)。宝暦三年(一七五三)村明細帳(建屋区有文書)では田方二〇九石余(二〇町二反余)・畑方二五石余(六町四反余)で、博労三・紺屋二、医師・大工・鍛冶屋各一などがおり、ほかに酒造家三軒もあった。


町村
まちむら

[現在地名]小田町町村

小田川の左岸に集落が発達し、南に険しい山を負う。小田郷の中心。小田町村ともよぶ。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴郡の項に「高百弐拾四石三斗六升九合 町村 日損所、茅山有、川有」とある。

大洲旧記」町村の条に「古城 四人の城持中、大将可然者なく、(ら)不肖を知て宇津の大野を迎て此所に居、大将を頼と(中略)いか様大城にして、只の城地にあらず、然に又久万へ迎に依て、後は大野近江守此所に居たるものと聞ゆ」とある。土佐国境守備の将として喜多きた宇津うづ(現大洲市菅田町)の大野朝直(直家ともいう)が迎えられて町村の土居どい城に入り、やがて久万大除くまおおよけ城に移るのであるが、これはその間の消息を語るものである。


町村
つじまちむら

[現在地名]野洲町辻町

紺屋町こんやまち村の南、小堤こづつみ村の西にあり、中山道が北部を東西に走り、北流する家棟やなむね川東岸に広大な禿山をもつ。中山道沿いに集落が集中し、その西方に耕地が広がる。条里地割は明確ではないが字六之坪ろくのつぼの条里呼称が残る。南方の妙光寺みようこうじ山・三上みかみ山の東側の山中を抜ける家棟道によって北桜きたざくら村と結ばれる。村名は甲賀郡へ通じる家棟道と中山道が交差することによるといわれ、集落北側には字将軍しよぐんつじもある。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)には辻村とみえ三四〇石余。慶長七年(一六〇二)の検地では二九六石余、田一五町二反余・畑屋敷二町七反余(野洲町史)


町村
まちむら

[現在地名]松任市中奥町なかおくまち

東は長竹ながたけ村・橋爪はしづめ村、北は徳丸とくまる村。集落の西を中村なかむら用水の分流ひがし川が南北に貫流する。正保郷帳では長竹村と一括して高付される。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(新松任町史)では高二二一石、免五ツ六歩、小物成はなし。寛文年間の家高数二・百姓数八(高免付給人帳)。「皇国地誌」によると家数一一・人数六二、野菜類の生産が多かった。


町村
まちむら

[現在地名]府中市もと

広谷ひろたに村の西に位置し、「福山志料」は「モト府川町村ト云」と記し、慶長三年伊勢太夫配札帳に「町村」がみえるという。また「西備名区」に「里諺に、中古府中町の跡なる故に町村と云ふと」とある。

芦田あしだ郡に属し、元和五年(一六一九)の備後国知行帳によれば高六九七石余、元禄一三年(一七〇〇)の町村御検地水帳(広島大学蔵)では反別三七町余・高五二二石余。福山藩水野氏断絶後幕府領、元禄一三年以降福山藩領。「備後郡村誌」は「山三合田畑七合村ニ御座候、但六歩水損所、四歩旱損所」とし、野山一ヵ所(村中牛馬飼場)、草山三ヵ所があり、薪山札一〇枚を記す。これについては「右六拾目指上、荒谷村かうら谷御林下苅毎年正月より十二月迄仕候」とある。


町村
まちむら

[現在地名]大津町町

灰塚はいづか村の南東、白川中流右岸に位置する。瀬田下せたした井手の水路が通り周囲は水田地帯となっている。慶長一三年(一六〇八)検地帳上町かみまち村とみえ、人数六五・屋敷持二四、牛馬二〇、田三四町四反余・畠一一町八反五畝余・屋敷四町七反余、分米五七九石八斗余とある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳では下町組に属し、上町村本分と上町村出分に分れている。本分は戸数九(うち名子百姓一)・家数五三、人数六一(うち紺屋一)、牛馬二二、高二〇六石七斗余。出分は戸数一四・家数七四、人数八六、牛馬二〇、高三七二石二斗余のうち入作分の高六七石四斗余とある。その後合志郡大津手永に属した。


町村
まちむら

[現在地名]砺波市三郎丸さぶろうまる

地仙ちせん村の南にあり、南はみや村、西は三郎丸村千保せんぼ川跡左岸の微高地に位置する。元和五年(一六一九)の家高新帳に町村とあり、開発組に属し役家数四。正保郷帳では高一七三石余、田方一〇町八反余・畑方七反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では油田町あぶらでんまち村とあり草高二〇石・免四ツ、小物成はない(三箇国高物成帳)。役家数は延宝四年(一六七六)二軒、うち無家役一軒(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)


町村
まちむら

[現在地名]武儀町下之保しものほ

南流する津保つぼ川沿いに位置し、南は殿との村、西は西洞にしぼら村。村名の由来は「濃州徇行記」に「古稲葉伝右衛門と云へる人の城ある由云伝へ」られ、そのため町や北の大門おおもんなどの地名が残ったとされる。文禄三年(一五九四)九月五日の下之保村山年貢折紙(森田文書)に「まち村」とみえる。元禄郷帳に下ノ保町村と記され、高一四五石余。「濃州徇行記」によれば、川西に田四反余・畑三町八反余、川東に田三町四反余・畑四町九反余、川東の門原かどはらに田三反余・畑三町七反余があり、山六万七千九一三歩、家数四四ほど。


町村
まちむら

[現在地名]金沢市東町ひがしまち

平下ひらしも村の東、医王いおう山南麓に位置。西で医王山いおうぜん川が浅野川に合流する。北方北袋きたぶくろ村領内にあった御神造山城の南口の川原に町場ができたのが村名の由来と伝える(河北郡誌)。正保郷帳では古郷寺こきようじ村と並記され、高一四六石余、田方六町四反余・畑方三町三反余。


町村
まちむら

[現在地名]武儀町富之保とみのほ

湾曲する津保つぼ川右岸に位置し、南は岩山崎いわやまざき村・粟野あわの村。「新撰美濃志」によれば、当村の山上に古城跡があり、近世初期に稲葉貞通が一時住んだというが、「濃州徇行記」は稲葉彦六(貞通の子)の居城とする。そのため村名は城下の町屋であったことに由来し、田の字名として殿町とのまち牢屋ろうやなどがあったという。


町村
まちむら

[現在地名]松本市島内 町村

もと犬飼いぬかい郷一千五〇〇石余で犬飼島といわれた村の中心で、慶安検地の際一四五石七斗一升五合と高付けされる。「信府統記」には「御朱印高百七拾四石七斗六升五合」とあり、享保九年(一七二四)当時の石高は一九七石一斗七升三勺。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の町村の言及

【在郷町】より

…日本近世では法的に都市・と農村の区別が存在したが,農村地域にありながら実質は町として活動しているものをいう。郷町,町分,町場,在町,町村などの名称をもつ場所をさす。ただし法的に町として認められている場所でも,農商混住の在方の町では在郷町とよぶことがある。…

※「町村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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