壁画または浮彫,線刻などの装飾をもつ古墳の総称として用いる語。日本の古墳のうち,(1)浮彫または線刻で飾った石棺,(2)浮彫または線刻で飾った石障(せきしよう)をもつ横穴式石室,(3)壁面に彩色文様ないし壁画を描いた横穴式石室,(4)墓室の内壁または外壁に浮彫,線刻,彩色画などのある横穴,以上の4種をふくむ。しかし,日本以外の地域では,石棺に彫刻があっても装飾古墳ということはなく,墓室に壁画や浮彫があるものも,壁画墓,画像石墓などとはいうが,装飾古墳とはいわない。日本で装飾古墳をとくに問題にすることが多いのは,その装飾にたいする美術史的な関心とともに,以上の4種がいずれも,主として福岡・熊本・大分・佐賀4県にわたる,九州北部地方に密集して存在するという地域的特性を重視するからである。
九州北部地方の装飾古墳は,ほぼ5世紀中葉から7世紀前葉にかけて営造したものである。4種のうちでまず現れたのは,石棺に直弧文(ちよつこもん)を彫刻したものである。これには,福岡県石人山(せきじんやま)古墳の家形石棺のように,棺蓋に直弧文を浮彫したものと,熊本県鴨籠(かもご)古墳の家形石棺のように,棺蓋に直弧文を線刻したものと,福岡県浦山(うらやま)古墳の家形石棺のように,棺身の内面に直弧文を線刻したものとがある。これらと前後して,横穴式石室の内部に安置場所を囲んで方形に立てめぐらした石障その他に直弧文を彫刻したものが現れた(石室)。これにも熊本県長砂連(ながざれ)古墳のように,直弧文を浮彫したものと,熊本県井寺(いでら)古墳のように,直弧文を線刻したものとがある。後者には同心円の文様もまじえているが,熊本県千金甲(せごんこう)1号墳では,同心円と靫(ゆき)とを用い,千金甲3号墳では,石障ではなく,石屋形(いしやかた)(石室奥壁に接して組み立てられた安置施設)に同心円,靫,大刀(たち),舟などを線刻したものに変化している。なお,彫刻とのみ記したが,以上の諸例においては,その上に,赤1色または赤,白,青などの,鉱物質顔料を用いた彩色を施している。
横穴式石室の壁面に彩色による壁画を描いたものでは,同心円,三角形,蕨手文(わらびでもん)などの抽象的文様と,靫,盾,大刀,舟などの器物と,人馬犬鳥などとの,大別すれば3種類の要素を組み合わせて用いている。たとえば,福岡県日ノ岡古墳のように,抽象的文様を主とするもの,福岡県王塚古墳のように,主室の壁画は器物を主として抽象的文様を加え,前室の壁画は人馬像を主として,余白を抽象的文様でうずめたもの,福岡県五郎山古墳のように,器物と人馬犬鳥とを用いたものなどの,各種の組合せを見いだすことができる。関東地方の茨城県虎塚古墳の場合は,靫,盾,鞆(とも),大刀,矛などの器物と,三角形,円文,渦文などの文様との組合せであるが,赤1色を用いた彩画に先立って,壁面に白色粘土の下塗りを行っているのが特色である。なお,とくに1群として分けなかったが,彩画のかわりに線刻画を用いたものがあって,これには熊本県仮又(かりまた)古墳のように,多数の舟の図を重ねて描いたものが多い。
横穴を墓室とするものの場合には,九州地方では熊本県石貫(いしぬき)横穴のように,入口のまわりに同心円や三角形を赤色で描いたものや,熊本県大村横穴のように,外壁に器物や人馬を浮彫にしたものがあって,いずれも多くの類例が群集している。他の地方にも,大阪府高井田(たかいだ)横穴の通路の両側壁に人物と舟とを線刻したものや,福島県泉崎(いずみさき)横穴の室内に人馬の群像を赤色で描いたものなど,少数の遺例が各地に散在している。
九州地方の装飾古墳のうち,横穴式石室に彩画を描いたもののなかには,明らかに大陸文化の影響をうけたと考えてよいものがある。福岡県珍敷塚(めずらしづか)古墳の壁画に,中国で月の表現として用いる蟾蜍(せんじよ)(ひきがえる)の図があることや,福岡県竹原(たけはら)古墳の壁画に,日本人の作品とは信じがたいほどの,力強い人馬の描法を見いだすことは,だれもが指摘するその実例である。そうして,日本に影響をあたえたものは,墓室の壁画に風俗画を用いる高句麗の風習であろうというのも,多くの学者の一致した見解である。壁画の題材に風俗画を用いた高句麗の石室墓は,4世紀中葉には平壌地方に出現し,中国風の四神図を採用するようになった6世紀中葉ごろまで存続したようである。したがって,日本の6~7世紀の石室壁画に,その影響をうけた形跡があるということには,十分に可能性がある。しかしそれは,日本の装飾古墳がすべて,一様に高句麗壁画墓の影響によって発生したということではない。繰り返すことになるが,九州の装飾古墳のうちでまず出現したのは,石棺に直弧文の彫刻を用いたものである。直弧文という文様の性質が,こういう場所に適した神秘的な意味をもったものであることからみても,それはむしろ日本独自の思想によって生じたものと考えねばならない。大陸文化の影響はそののちにあらわれて,在来のものを著しく変化させたのである。
→壁画墓
執筆者:小林 行雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
石室、石棺などに彫刻、彩色を施して装飾された古墳の総称。わが国の古墳時代には5世紀から7世紀にかけて、古墳石室の入口や内部、石棺の内外面、および横穴の外壁や内部に、各種の文様や絵画を彫刻や彩色で表す風習があった。それらの分布は福岡県南部と熊本県下にもっとも多く、全国の総数約300例のうち半数以上を占める。同じ九州でも宮崎、長崎県下には少なく、鹿児島県下には発見されていない。本州では島根県東部と鳥取県西部に集中し、畿内(きない)およびその周辺にはきわめて少ない。東日本では相模(さがみ)湾周辺、および鹿島灘(かしまなだ)に面した茨城県地方に多く、これに隣接する福島県東部には集中的にみられる。それらの多くは横穴系に属し、北は仙台平野北部の宮城県志田(しだ)郡地方に及ぶ。
初期の図柄は主として直線と弧線を組み合わせた直弧文(ちょっこもん)をはじめ、円、同心円、三角形、菱形(ひしがた)などの幾何学図形文を表したものが多い。一方、5世紀前半ごろには、鏡や大刀(たち)、短甲(たんこう)、靭(ゆき)、楯(たて)など、具象的な図柄が出現し、やがて赤、白、黄、青、緑などの彩色も併用される。6世紀代になると壮麗なものが多く、なかには被葬者に関する一種の物語風場面を構成するものがあり、それらの意匠は横穴の表壁や内部に踏襲される。その点、奈良県高松塚古墳の壁画は系流を異にし、高句麗(こうくり)や唐文化の影響によるものであった。
装飾古墳の起源を中国の後漢(ごかん)や朝鮮半島の高句麗壁画墓に求める向きがあるが、無関係で、その目的には悪霊排除などの呪術(じゅじゅつ)的な意味が考えられる。しかし6世紀後半になると、大陸系の四神や日月、竜馬神話などが画題に反映し、思想的な影響があったことがわかる。
[乙益重隆]
『水尾比呂志著『装飾古墳』(『ブック・オブ・ブックス 日本の美術45』1977・小学館)』▽『小田富士雄・乙益重隆著『装飾古墳と文様』(『古代史発掘8 古墳時代3』1974・講談社)』
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(2012-09-11)
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浮彫・線刻・彩色などによる文様・絵画・彫刻をもつ古墳や横穴墓の総称。装飾の施される場所は,石棺,石室の壁面,石障,横穴墓の壁面や入口など。福岡県王塚古墳のように,壁面に絵画の描かれたものを壁画古墳とよぶ。福岡・佐賀・熊本・大分県など九州北部に集中的にみられ,鳥取・神奈川・茨城・福島・宮城県などにもまとまってみられる。古い段階では,直弧文・同心円・三角形・蕨手文(わらびてもん)などの幾何学的・抽象的文様が多いが,しだいに靫(ゆぎ)・盾・大刀・舟などの器物,人物,馬・鳥・魚など具象的な絵画となる。多くは5~6世紀に造られたが,7世紀に降るものもある。
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