日本歴史地名大系 「大沢新田村」の解説 大沢新田村おおさわしんでんむら 長野県:佐久市野沢地区大沢新田村[現在地名]佐久市大字大沢大沢村本郷(ほんごう)から約六キロ、蓼科(たてしな)山の谷深い山あいの村。標高九〇〇メートル強の地にある。居(い)川に沿って本郷から布施(ふせ)村(現北佐久郡望月(もちづき)町)へ通じる一本道が蓼科山麓を通る。新田が一村として認められたのは元禄・宝永(一六八八―一七一一)の頃という。元和八年(一六二二)佐久郡高書上帳(柳沢文書)には「九百六十五石弐斗 大沢村同新田」と記す。寛政一〇年(一七九八)の領内村々明細帳留書(瀬下良清氏蔵)に高二九石六斗五合として「大沢新田村」とあり、注して「万治弐亥甲府様御縄野田市左衛門様検地」としてある。 大沢新田村おおさわしんでんむら 長野県:茅野市大沢新田村[現在地名]茅野市金沢(かなざわ) 大沢金沢村の南部にあって、北は金沢村、西は大沢(おおさわ)山の山地で、尾根伝いに西南の御所平(ごしよだいら)越えに上伊那郡三義(みよし)村(現高遠(たかとお)町)に通ずる。東北部を宮(みや)川に沿い甲州道中(現国道二〇号)が通っている。慶安元年(一六四八)の開発で、親村は金沢村、草分人は忠右エ門・久右エ門・惣右エ門(諏訪史)。元禄一五年(一七〇二)の信濃国郷帳には高五七・八四三石とあるに対し、享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)には「家数六軒 高四拾石八斗二升六合」と減少している。 大沢新田村おおさわしんでんむら 新潟県:新井市大沢新田村[現在地名]新井市大沢新田高床(たかとこ)山南東麓にあり、北は大原(おおはら)新田村、東は飯山(いいやま)道沿いの楡島(にれしま)村に接する。明暦三年(一六五七)の大原新田之内大沢村検地帳(大沢新田区長文書)に、田高五六石一斗余・畑高三七石七斗余とある。天和三年郷帳に大沢新田として高五九石余、うち野高二斗九升九合とある。 大沢新田村おおさわしんでんむら 長野県:東筑摩郡本城村大沢新田村[現在地名]本城村大沢新田東条(ひがしじよう)村の東南、乱橋(みだれはし)村の東に位置する山間の村。村内を東条川が北西流する。慶安検地の際、松本藩領会田(あいだ)組東条村から一一石三斗三升一合の村高で分れた村で、のち坂北(さかきた)組に属す。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by