大河村(読み)おおかわむら

日本歴史地名大系 「大河村」の解説

大河村
おおかわむら

古代より豊前宇佐宮領としてみえ、中世には高来西たかくさい郷のうちの村名として現れる。現伊福の大川いふくのおおかわに比定される。応和三年(九六三)二月一二日の肥前国国符(宇佐大鏡)に「伊福 大河 伊古 御墓野」とみえ、宇佐宮の牢籠なき神領の一つであった。「大河山」などはもと宇多天皇第七皇女婉子内親王家の所領の高来郡油山あぶらやま十二箇所であり、延喜一〇年(九一〇)二月一三日に宇佐宮に施入され、応和三年になって正式に引渡されたもの。保安三年(一一二二)の宇佐宮領高来郡油山十二箇所立券文(大川文書、以下断りのないかぎり同文書)には「大河山」の四至として東・南・西の三方が岳もしくは山を限り、北は路の海際であると記される。建仁元年(一二〇一)四月一九日の肥前宇佐宮神領目録には「大河村」として在家六家・畠一丁二段三〇・苧四両・桑三一本とあり、建保五年(一二一七)九月一四日の肥前高来郡内宇佐宮領立券文によれば、「伊福大河惣四至」として「東限若宮尾東折立、同上者登道、下者大河、西限上者阿志野西登道、下者世見河、南限阿津摩嶺、北限海」とあり、「大河村」は田九段(若宮神田)・畠一町(見作六段)・在家四家・桑二〇本とある。田・畠とは別に桑の本数が記載されており、養蚕に充てられたものであろう。


大河村
おおがわむら

[現在地名]額田町大高味おおたかみ

村域を西南に流れるおと川支流の大高味川の河岸段丘右岸に集落が立地。東南は古部こぶ(現岡崎市)、西は高薄たかすき村、北は法味ほうみ村と各々山で接する。中世、中山なかやま庄に属する。「三河志」によると、熊谷武蔵守が住し、その臣竹内九藤平・長井佐治兵衛の古城跡があると伝えるが、熊谷武蔵守なる人物については不明。宇利うり(現新城市)城主熊谷氏は今川方で、「宗長手記」の大永六年(一五二六)には越後守とあり、「参河国聞書」の享禄三年(一五三〇)には備中守とある。


大河村
おおかわむら

[現在地名]清和村大平おおひら

西は平野ひらの村、東は高月こうづき村に接し、大矢おおや川沿いの平地に集落がある。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「をゝかわ」とあり、貫高は四九貫。慶長国絵図には「大川村」とみえる。矢部手永に属し、「国誌」に「里俗上大川村ト云」とあり、赤坂村中原なかばる村・市口いちくち村・中尾なかお村・御所園ごしよぞの村・下鶴しもづる村・キビウ野村・岩下いわした村などの小村を記す。赤坂は「肥集録」などにみえる赤迫あかさこであろう。文政九年(一八二六)の矢部手永略手鑑によれば高四六七石九斗余、田畝一三町五畝余・畑畝一六町七反三畝余・苅畑六反九畝、竈数六五、男一〇五・女一〇五、牛一二〇・馬八一。


大河村
おおこうむら

[現在地名]笠岡市大河

木之目このめ村の西にあり、南は吉浜よしはま村。かつては南流する吉田よしだ川の河口に位置し、地名の由来もこれにちなむとされる。慶長一一年(一六〇六)の徳川家康朱印状(高山公実録)では小田おだ郡に属し高一六二石余、伊予の藤堂高虎に加賜されている。元和五年(一六一九)から元禄一一年(一六九八)まで備後福山藩領、その後幕府領となり、文政一〇年(一八二七)以降は三卿の一橋領となって幕末に至ったと考えられる。


大河村
おおかむら

[現在地名]山南町大河

南は篠山川を隔てて太田おおだ村など、東は枝村の北太田きたおおだ村。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に大川村とみえ田高三一一石余・畠高三七石余、柴山・林あり、日損少しあり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)幕府領となるが、国立史料館本元禄郷帳では大河村とみえ旗本安藤領。鶴牧藩大概帳に「前田安芸守御知行所二十年程、松平伊豆守領分にも相成、年号年数共に不知」とあり、その後京都町奉行役地、宝永六年(一七〇九)より享保九年(一七二四)まで安藤駿河守領のうち安藤長次郎分知分、同一〇年安房北条藩水野家(文政一〇年上総鶴牧藩)領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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