赤坂村
あかさかむら
[現在地名]小倉北区赤坂一―五丁目・高浜一―二丁目・上富野四丁目
富野村の東、足立山系の北端の山麓、延命寺川(古くは大谷川)河口右岸に位置する。大里往還(長崎街道)が通る。貞治四年(一三六五)四月日の門司親尚軍忠状(門司文書/南北朝遺文(九州編)四)によると、武家方に転じた大内弘世は貞治二年一一月に九州へ渡海、「赤坂」に陣取り、宮方の猿喰城(現門司区)を攻略した。応安三年(一三七〇)九州探題に補任された今川了俊は、翌年末には門司へ渡海、同五年一月一五日には赤坂に陣取った(同八年正月日「山内通忠軍忠状」山内家文書/南北朝遺文(九州編)五など)。戦国期には豊前守護大内氏の支配下に入り、小倉・門司と並んで本州赤間関(現山口県下関市)と九州を結ぶ港湾の一つとして機能した。文明一九年(一四八七)四月二〇日の大内氏奉行人連署下知状(大内氏掟書/中世法制史料集)では赤間関と「あかさか」の渡賃を二文と定めている。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]大垣市赤坂町・赤坂東町・赤坂新町・赤坂大門・枝郷
東端を南流する杭瀬川(赤坂川とも称する)右岸に位置し、村内を東西に通る中山道の赤坂宿を中心とした街村。南は牧野新田・荒尾村・与市新田。宿の北方に石灰で名高い金生山、南方に勝山がある。東山道の要衝として開け、鎌倉期以後は赤坂宿を中心に発展し、江戸期から赤坂河岸があった。天正一七年(一五八九)一〇月二六日の池田不破両郡赤坂村検地帳(矢橋文書)によれば、田畑・屋敷ともで五三町二反余、高五三九石余(うち田高三二六石余・畑高二〇五石余)。慶長郷帳では村高一千八一石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。
赤坂村
あかざかむら
[現在地名]中山町赤坂
下甲村の南、甲川下流右岸に位置する。村名について文久二年(一八六二)の八橋郡村々諸事書上帳(峰地家文書)は「往古赤坂四郎兵衛と申侍居申、夫より赤坂村と唱へ候様申伝へ候得共、其人子孫断絶仕候」と記す。「伯耆民諺記」には中山郷赤坂の赤坂掃部は元亨(一三二一―二四)の頃細木原城(現赤碕町)に居城したとあり、「名和氏紀事」によると、延元元年(一三三六)京都大宮の戦で名和長年に従った者のなかに、赤坂掃部助幸清がいたとされる。六助田には鎌倉時代末期の五輪塔などがあり、赤坂氏一門の墓と伝えられる。
八橋郡に属し、藩政期の拝領高三七九石余、本免五ツ。天保三年(一八三二)の山林反別八町三反余(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四五三石余、竈数五〇。藪役銀九匁を課されていた(藩史)。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]上田市大字殿城
殿城山西麓にある村。集落の西を吉田堰が北から南へ流れ、東は殿城山を隔てて東田沢村(現小県郡東部町大字和)、西は下原村(現小県郡真田町大字本原)、南は矢沢村、北は上原村(現小県郡真田町大字本原)と境をなす。集落の南に古墳時代後期の赤坂の将軍塚があり、この辺りの開発の古さを物語っている。赤坂の山麓は古くより湧水に恵まれ、ことに滝宮神社・大慧山滝水寺は近くの岩間より清水が湧き出し滝となっていることからつけられた神社名である。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]高崎市歌川町・上和田町・台町・請地町・昭和町・成田町・末広町・山田町・旭町・東町・栄町・八島町・若松町
高崎城遠堀に接する郭外周辺に点在して、人家なく耕地のみであった。高崎近辺は古来より赤坂庄とよばれ、和田氏が和田山(現群馬郡箕郷町)から寛喜二年(一二三〇)移って和田城を築き、のち当地も和田宿とよばれるようになったと伝える。赤坂庄の名称の起源については判然とせず、「高崎志」には「里俗伝ヘ云、其土赤埴ニシテ、坂アル故ニ赤坂ト名ヅク、(中略)且赤坂明神ナド云ル神モ坐セバ、古キ地名ナルベシ」とある。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]中之条町赤坂
蟻川村の東南にある。村域内から縄文式土器が出土した。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高二四六石余。寛文郷帳では田方五七石余・畑方一八九石余。寛文三年(一六六三)の沼田藩領新検地控によると高一千一一二石余、うち二四〇石余が真田家家臣岩松主殿、二五二石余が堀田九兵衛の給地。貞享二年(一六八五)の沼田藩領再検地控では三九〇石余。元禄一一年(一六九八)には旗本保科領となり、元禄郷帳には当村分として大道新田高五六石余が載る。江戸後期には同領で家数一六〇(御改革組合村高帳)。保科氏は郡内に七ヵ村の知行地をもち伊勢町に役所が置かれた(元禄一一年「保科領七ヶ村会合回状」伊能文書)。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]峰山町字赤坂
網野街道沿いの街村。東は丹波村、西は竹野郡、南は杉谷村・安村、北は石丸村に接する。村域内にホエケ谷古墳群(四基)・ケビ古墳・松ヶ谷古墳群(二基)・代耳尾古墳群(二基)・大谷山古墳群(四基)がある。代耳尾二号墳が前方後円墳(全長約七〇メートル)であるほかは小規模な円墳である。
慶長検地郷村帳に高四四六・〇二石「赤坂村」とみえる。峯山明細記によれば反歩は四一町七畝一〇歩(田三五町七反九畝二四歩、畑五町二反七畝一六歩)。峯山藩領。
赤坂村については「峰山古事記」に、峯山藩初代京極高通の時、「今ノ御館地面ニ有シ篠箸ノ社並ニ其下ヨリ北谷町辺ニ有ル村家ヲ今ノ赤坂村ノ処ヘ引カセ」て、御館や侍屋敷などの地にあてたとある。
赤坂村
あかさかむら
現鮫川村の赤坂中野・赤坂西野・赤坂東野一帯に比定される中世の村。明徳五年(一三九四)四月二五日の沙弥賢雄年貢請取状(奥州文書)に「石河庄蒲田内三分壱赤坂村」とみえ、国衙年貢一貫文が納められており、当地は石川一族の蒲田氏領の中核蒲田村の一部であった。貞治四年(一三六五)石川義光から甥の賀尾房(赤坂氏)に蒲田村が譲られ(同年一一月八日「石河義光譲状」遠藤白川文書)、以降赤坂氏(蒲田氏とも名乗る)が蒲田村全域を継承したようである。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]佐野市赤坂町
南流する佐野川の両岸に位置し、東は植野村。近世初期に田島村から分村して成立したというが(植野村郷土誌)、慶安郷帳に村名はみえず、寛文四年(一六六四)の下総古河藩領知目録に村名がみえる。貞享元年(一六八四)再興された佐野藩領となる。元禄郷帳では高九九四石余、幕府領と古河藩領の二給。寛政元年(一七八九)の佐野氏知行郷村高帳(新井清文書)には古河藩領と旗本佐野・仙波・蜷川の四給とある。文政八年(一八二五)には古河藩領と旗本佐野の二給であったが(「渡良瀬川自普請願」鈴木武夫文書)、翌年堀田正敦の佐野移封に伴い佐野藩領となり幕末に至る。天保年間(一八三〇―四四)の家数一三五(改革組合村)。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]丸岡町赤坂
丸岡城下の北東方向の山麓に位置する農村。北は女形谷村。枝村として大門があった(越前国名蹟考)。慶長九年(一六〇四)一一月一二日付の結城秀康宛行状(多賀谷文書)に「丸岡赤坂村」がみえる。しかし、同一一年頃の越前国絵図では村名はなく、田屋村に含まれていたと思われる。近世、田屋村より分離した村で形成する八ヶ盛のうちの一村(→田屋村)。
正保郷帳には「伏屋三本木赤坂村」とあり、総石高九八三・四一石(田方七〇七石余・畠方二七六石余)。元禄郷帳で伏屋・三本木・赤坂の各村はそれぞれ独立して記載される。当村は三〇七・〇七四石であった。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]南関町細永
関川左岸に位置し、北は関下村、南は今村と接する。「国誌」所引の弘治四年(一五五八)一月一一日の大津山重経が野中孫七郎に宛てた宛行状に「鷹巣主税助給分赤坂分」がみえ、「一所 一町四反」「同居屋敷 一ケ所」が記される。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田五九町六畝余・畠五八町一反六畝余、分米一千七八石余。近世は南関手永に属する。「国誌」に「高五百九石余、里俗小永村ト云、松尾ト云小村アリ」と記す。元禄国絵図・「国誌」に「赤坂村之内」として安ノ原村・庄寺村・高久野村が記され、村高の減少はこれらの村の分村による。文政五年(一八二二)の南関手永略手鑑では田二〇町八反余・畑二七町二反四畝余、竈数五六・人数二四三、馬四二、油本手一・造酒屋一がいる。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]夜須町赤坂
吹田村の北にあり、砥上岳の南西麓にあたる。東を天神川が南流する。康正二年(一四五六)一一月七日の筑前夜須郡段銭注文(三浦家文書/大日本古文書一四)では段銭を賦課された所々のなかに「赤坂対馬守給赤坂村・吹田村広大名」がみえ、当時赤坂対馬守の所領であった。天文六年(一五三七)一二月一四日の大内義隆大府宣(大悲王院文書/大宰府・太宰府天満宮史料一四)によると、義隆は不知行となっていた雷山(現前原市)領の「赤坂村三町地号小地頭職」を同山千如寺(現同上)に安堵している。江戸時代は福岡藩領。慶長石高帳に赤坂村とみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高二〇五石余、うち大豆二三石余。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]福山市赤坂町赤坂
加屋村の西に位置し、北は芦田郡福田村。古代の赤坂郷(和名抄)の地とされ、中世以降の山陽道が通る。地名の初見は「備後国沼隈郡赤坂郷中男黒葛十斤」と記された平城宮出土木簡で、中男の制の始まる天平宝字元年(七五七)以降のものと思われる。中世には津本郷の一角を占めていたと推察される(水呑町史)。村高は元和五年(一六一九)一千九四石余(備後国知行帳)、元禄一三年(一七〇〇)九四二石余(備前検地帳)。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]横手市赤坂
横手町の西にあり、南は下樋口村(現平鹿郡平鹿町醍醐)に接する。「梅津政景日記」元和四年(一六一八)四月三日条に「横手之内三枚橋村、高橋村(中略)本御検地之時ハ赤坂村と帳壱本ニ打被入候由、当御検地ニ赤坂ハ別帳ニ罷成(中略)赤坂ハ四ツ八分之御物成之由、右両村ハ七ツ五分之御物成之由」とあって、先竿(検地)では、三枚橋・高橋の両村とともに一冊の検地帳に記載されていたが、中竿(慶長一九年頃)では赤坂村の検地帳が一冊になり、年貢は四割八分となった。元和九年梅津半右エ門が服部監物にあてた文書に、「三枚橋ハ前代より赤坂分之御帳ニ入、ふし山、柴崎、上ノ岡、右四ケ村赤坂之御帳一冊ニ而、其後開之御帳ニも下三枚橋と在之候」とあり、三枚橋はその後の開発で下三枚橋として帳面にみえるという(湯沢町方肝煎留書)。
赤坂村
あかさこむら
[現在地名]肥前町大字赤坂
東松浦半島上場台地の南部の最高地に位置するが、平坦地で原野が多い。水利に乏しく、大田・丸尾・戸佐木場などの溜池がある。杉野浦道と伊万里往還(名古屋村―伊万里間)の分岐点になっていて、藩政期は人の往来が激しかったが、現在は道筋が変わり、寒村となっている。古来「あかさこ」とよばれていたが、現在は「あかさか」と称する。
有浦家文書の康永元年(一三四二)の源(佐志)勤から四男彦隈丸への譲状に「北限松浦大道東ハ赤坂中浦の□」とある。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]鶴岡市高坂
金峯山の北北東山麓にあり、南東は高坂村。地名の由来は、弘仁一一年(八二〇)近くの池に大蛇が住み年々童女が生けにえに供されることを哀れんだ慈覚大師が、その大蛇を済度して自作の薬師仏を安置した薬師堂を開いた。この堂へ赤土の坂を上っていったことによるとされる(「赤坂薬師縁起」黄金区有文書)。寛永元年庄内高辻帳に村名がみえ、高七〇石余。正保郷帳では田五〇石余・畑二〇石余、柴山があり、水損。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]今立町赤坂
服部谷と河和田谷(現鯖江市)を分ける河内山脈の西端山麓に位置し、西庄境村とは人家相接し、北は下戸口村(現鯖江市)。江戸時代の領主の変遷は南中津山村と同じである。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高一〇二九・三二石とある。正保郷帳によれば田方九五九石余・畠方六九石余。享保六年(一七二一)の庄境組三三ケ村明細帳(市橋家文書)によると家数六〇戸で、人口は二五六人。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]庄内町赤坂
庄内川上流域に位置し、北は綱分村。民居は一ヵ所にある(続風土記拾遺)。弘治三年(一五五七)と推定される年月日未詳の志賀兵庫頭給地坪付(大友家文書録/大分県史料三二)に嘉麻郡のうちとして「一所拾三町 赤坂村」とあり、当地は大友氏家臣志賀氏の所領であった。小早川時代の指出前之帳では赤坂村の田一六町四反余(分米一六三石余)・畠二町三反余(分大豆一四石余)。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]越廼村赤坂
丹生山地の西部にあり、西は日本海、北は居倉浦。天正一〇年(一五八二)の覚書写(三助文書)に「赤坂」とみえ、居倉・居倉北山村とともに茗荷村(現織田町)との間で山論があった(→居倉北山村)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では居倉村に含まれ、正保郷帳によれば田方四〇石余・畠方六〇石余。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]黒石市赤坂
黒石城下北方の平野部にあり、上十川村の西、目内沢田村の東に位置する。三島村と民家が入交じっていた。村の南方に「フン館」とよばれる館跡がある。館主は千葉氏といわれる(黒石地方誌)。
元和七年(一六二一)小知行のうちで士分に取立てられた「津軽八十三騎」のなかに、赤坂村の助次郎と惣右衛門の名がみえる(津軽一統志)。この頃すでに村はできていた。弘前藩浪岡組に属し、貞享四年(一六八七)の検地帳では、田方三三町九反六畝、三四三・四一四石、畑方三二町一反七畝一七歩、一一六・一二五石とある。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]西区岩岡町岩岡
天ヶ岡村の西に位置する。明石藩主松平直明の開墾策によって貞享元年(一六八四)以来開発が行われた(采邑私記)。元禄郷帳に村名がみえ、高二〇三石余。天保郷帳では高二一三石余。明石藩領新田組に所属。「明石記」によると東西一五町・南北三町、池三・山三八・土橋二・藪三七。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]黒磯市高林
北に入会原野大輪地原が広がり、東は箕輪村、南・西は高林村。那須野ヶ原の北部に位置し、水利に乏しい。天正一八年(一五九〇)大田原氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「赤坂」とあり、高林・箭坪とともで二五二石二斗一升(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]八千代町赤坂
俵田村の西に位置し、南流していた野間川が当村の南部で東へ湾曲する。正保郷帳では田方二七石余・畑方一五石余、山役・いかき役があり、幕府領、旧高旧領取調帳でも同領。延宝五年(一六七七)の検地帳(横山家文書)によれば高四九石余・反別四町九反余、小物成は山手銀二五匁余・いかき役銀二匁。
赤坂村
あかさかむら
[現在地名]小坂町上向 赤坂
南流する高清水川支流の右岸台地上に位置し、東は牛馬長根村。
寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出、村高二七石六斗余でうち蔵分二六石五斗余、戸数一一軒でうち六軒は四津屋(現鹿角市十和田上向四ッ谷)に分存。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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