橘村(読み)たちばなむら

日本歴史地名大系 「橘村」の解説

橘村
たちばなむら

[現在地名]加賀市橘町

大聖寺だいしようじ川下流部の支流奥谷おくのや川の中流域に位置し、西は永井ながい村。古来、越前から加賀に入る関門とされた地で、「延喜式」兵部省の朝倉あさくら駅を当地に比定する説がある。文明一八年(一四八六)六月、北陸・関東・東北諸国遊歴の旅に出た京都聖護院門跡道興は、越前国「たかぎの里」(現福井市)から「加賀国にいたりたちばなといへる所」で投宿、「旅立もさつきの後の身也けり我に宿かせ橘のさと」の歌を残している(廻国雑記)。これは越前金津かなづ(現福井県金津町)から細呂木ほそろぎ(現同上)を経て加賀に入るルートで、近世には北陸街道として整備される。延徳三年(一四九一)三月一〇日、冷泉為広も当地を通って「タチバナ加州、本願寺ヨリ送馬人夫等数多是マテ来也宿アリ」と記している(越後下向日記)。朝五つ過ぎ(八時頃)に金津の宿所をたち、細呂木吉崎よしさき(現金津町)を経て当地に至っている。

中世には高山こうざん(現京都市右京区)みぎ庄のうちで、永正三年(一五〇六)四月一〇日、高山寺東坊弁海は借用した一貫文の本利を「加州橘北方」の年貢をもって返弁することを銭主に約している(「東坊弁海料足借用状案」高山寺文書)。「賀州本家領謂付日記」天文四年(一五三五)一〇月二七日条に、慈寿(慈受)院御料「ヨネタチハナ」ほか六ヵ所の知行申付を求められ、証如はこのうち二ヵ所を申付けたとあるが、「天文日記」同七年一一月一七日条から当村は慈受院領としては認められなかったことがわかる。

橘村
たちばなむら

[現在地名]川北町橘

橘新たちばなしん村の東、手取川下流北岸に立地。正保郷帳によれば高一千二三二石余、田方六〇町五反余・畑方一二町。ほかに新田高七六石余、田方三町五反・畑方一町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一千五七四石、免三ツ六歩。ほかに同元年の新田高三石がある。小物成は川役一二五匁・川原役一二八匁、鳥役三〇目も記されるが、鷹場につき免除とある(三箇国高物成帳)。手取川の洪水による検地引高が天和元年(一六八一)に二六二石あり、一方、手上高が元禄七年(一六九四)に一〇石、同一二年に四五石、享保一七年(一七三二)に三石、天明六年(一七八六)に四石あり、弘化三年(一八四六)の村高は一千三七七石、百姓数九一、うち一一人は懸作(「北板津組品々帳」鈴木文書)

橘村
たちばなむら

[現在地名]相川町橘

南は稲鯨いなくじら村、北は高瀬たこせ村、前面は海。橘・宮の浦みやのうら差輪さすわの三集落からなる。差輪の上にさすわ沢の地名が残るので、「三代実録」の元慶二年(八七八)一一月甲辰条に「佐渡国正六位上、佐志羽神」とある宮座の所在地を当村に比定する説が古くからあった。この海浜一帯から古代製塩土器を出土するところから「佐渡国神社誌附録」(矢田求)・「佐渡上代史考」(本間周敬)など在地の郷土諸書は、佐志羽神を製塩の神と考証している。また背後の山には金山河原かなやまかはらかねはらの地字がみられる。

橘村
たちばなむら

[現在地名]内海町橘

播磨灘に面したいわゆる東浦ひがしうらの小漁村橘湾は東北に浮ぶじようヶ島と南岸のかさヶ鼻に囲まれ良漁場を形成する。背後に千羽せんばヶ岳(三七一・四メートル)拇指おやゆび(三七一メートル)がそびえる。

当村は中世末期、坂手さかて村へ移住した播州赤松氏の支族といわれる広瀬則道が、同族の者とともに出漁の都度開拓を始め、慶長一〇年(一六〇五)片桐且元により坂手村分として検地をうけて高一二石余・反別五町四反余が検出され(安田村誌)、のち則道の子道香、広瀬五郎右衛門らが移住したのに始まる。

橘村
たちばなむら

[現在地名]吾川村橘

わし村の西北に位置し、南を仁淀によど川が東流する。西は伊予国。かわ村の枝村。天正一八年(一五九〇)の菜川地検帳に橘ノ村として一一筆が記される。うち屋敷は三筆で、橘左近進がタチハナヲカタ屋敷一反二二代に居住する。江戸時代の本田高は五・五一五石(元禄郷帳)。「土佐州郡志」では戸数一七、寛保郷帳では戸数一二、人数六三、馬四、猟銃七。

橘村
たちばなむら

[現在地名]木造町出野里いでのさと 立花たちばな

岩木川の堤防に沿って発達し、北は出野里村、南は今市いまいち村の支村「今市」へ続く。東の対岸に鶴ヶ岡つるがおか(現五所川原市)、西は田圃を隔てて岡部里おかべさと村。

天和二年(一六八二)に開かれ、大野おおの村とよばれたという(西津軽郡史)。村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、享保一一年(一七二六)大野村が橘村と改称された。

橘村
たちばなむら

[現在地名]西土佐村橘

用井もちい村の南方、四万十しまんと川右岸、四万十川と目黒めぐろ川の合流地点の上流にあり、下山しもやま下分しもぶんの一村。「土佐州郡志」は「対用井村、沿川之処、縦一里許横三町許、小村一、(中略)其土多砂」と記し、用井村へはふえを渡るという。小村一とは網代あじろ村のことで、現在も通称地名として残る。

天正一七年(一五八九)の下山郷地検帳に橘名がみえ、同名は川崎かわさき村・用井村・用井村名・橘村・太黄寺村・網代村に所在。以上のうち橘村・網代村が江戸時代の当村に相当するとみられる。なお橘村には津野川つのかわ名もあった。江戸時代の橘村は元禄地払帳によると総地高一二四石余、うち本田高一〇七石余は蔵入地、新田高一六石余は貢物地。

橘村
たちばなむら

[現在地名]牟岐町橘

辺川へがわ村の北に位置する。北部に五剣ごけん山があり、橘川・喜来きらい川が流れる。土佐街道筋で、一里松があり、大師石像が祀られていた。嘉禎三年(一二三七)五月四日の官宣旨(九条家文書)にみえる「加波坂峯」は地内北東部の寒葉かんばであろう。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「たちはな」「きらい」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「立花村」「きらい村」とみえる。正保国絵図では「牟岐之内 橘村」とあり、また村内の「喜来村」も同様に記される。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では両村ともに牟岐浦の枝村とする。「阿波志」によれば、土田は陸田五反余・水田一四町五反、家数二八・人数一〇九。

橘村
たちばなむら

[現在地名]明日香村大字橘

飛鳥川の西にあり、祝戸いわいど村の北西に位置する。元興寺伽藍縁起並流記資財帳には「橘寺者此地多橘樹、為林故名橘寺、橘京其本名是島宮也」とみえる。近世初期の文書には「立花村」と書く。

文禄検地村高は三八四石。検地奉行石田正澄。近世を通じて高取藩領。寛永検地により三八五・九七石となる。地方蔵方寺尾勤録によると、寛永一六年(一六三九)村高のうち六・五九三石を祝戸村へ高分し、一八九・五六二石をしましよう村へ分け、のち嶋ノ庄村から〇・九四五石を戻された。

橘村
たちばなむら

[現在地名]蘇陽町橘

神働もかみ川左岸流域にあり、明治九年(一八七六)の合併により成立した村名。東は日向国臼杵うすき郡、西は仁瀬本にせもと村、北は菅山すがやま(現高森町)、南は神動もかみ村に接する。近世には上流から橘崎たちばなざき村・椛山かばやま村が並ぶ。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)に「一所しや二百文 まめ一斗 一所かは山二百文 まめ一斗」とあり、椛山村、およびその小村の椎屋しいやが銭二〇〇文・豆一斗を納入している。

橘村
たちばなむら

[現在地名]森町橘

天宮あめのみや村の西にある。赤石山脈の南山麓、伏間ふすま川の上流域に位置し、四面山に囲まれる。北は薄場うすば村、南は宮代みやしろ村、東方は森町村に接する。周知すち郡に属する。「遠江国風土記伝」に橘谷たちばのやとあり、橘谷川が南流し、麁砥石臼を産出するとある。「遠淡海地志」には大洞だいとう院の奥にあたる奥橘と本村である口橘を小地名としてあげる。正保郷帳に橘村とあり高四八石余(田方三一石余・畑方七石余・山高一〇石余)、柴山ありと注記される。うち二四石余ずつが常陸牛久藩領と旗本山口領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報