大田和村(読み)おおたわむら

日本歴史地名大系 「大田和村」の解説

大田和村
おおたわむら

[現在地名]横須賀市太田和おおたわ一―五丁目

武山たけやま丘陵の北西に位置し、東は武村、西は荻野おぎの村・長坂ながさか村、南ははやし村、北は衣笠きぬがさ村と接する。

「吾妻鏡」建久四年(一一九三)七月一〇日条に「将軍家出小坪辺給、長江大多和輩構仮屋於潟奉入」とある。弘安七年(一二八四)一二月一三日の関東御教書(県史二)によれば「相模国林郷大多和村内田参町、畠壱町、在家参宇」が頼朝の法華堂領であったことがわかる。観応二年(一三五一)一〇月七日の相模守護三浦高通禁制(県史三)に「右大将家法華堂領三崎庄内大多和村事」とあり、三崎みさき(現三浦市)に含まれていた。


大田和村
おおたわむら

[現在地名]田富町大田和

笛吹川右岸に位置し、北は東花輪ひがしはなわ村、南東は笛吹川に面する。笛吹川の堤の後ろを並流する鎌田かまた川が村の東部で笛吹川に入る。東花輪村との境をいま川が流れる。村の西を南流した空穂うつぼ川が南部で西に流れを変え、笛吹川の堤の後ろを西流する。笛吹川の渡場があり、対岸上野うえの(現三珠町)とを結び、舟越免が認められていた。村内を駿州往還が通る。天正四年(一五七六)八月二六日の武田家印判状写(「古文書雑集」若尾資料)に、大田和の住人として八右衛門が記載される。同一一年四月二一日には武川衆の青木弥七郎信安が徳川氏によって本領の代りに「大田輪内六拾貫文・同所跡部紀伊守分」を本給として安堵されている(「徳川家康印判状写」譜牒余録)


大田和村
おおだわむら

[現在地名]藤岡町大田和

三毳みかも(大田和山)南東麓の台地上にあり、東は蓮花れんげ川を挟み太田おおた村、西は三毳山を隔て越名こえな沼・安蘇あそ西浦にしうら(現佐野市)、南は中居なかい村、北は安蘇郡下津原しもつばら(現岩舟町)。南東部は谷が発達し低湿地を形成している。慶安郷帳では田二〇五余・畑一三五石余、下総古河藩領。改革組合村では幕府領と古河藩領の相給、旧高旧領取調帳では古河藩領のみ。天保(一八三〇―四四)頃の古河藩領村明細帳(茨城県潮田文書)によれば、高四〇二石余、うち新田六一石余。


大田和村
おおたわむら

[現在地名]富津市大田和

高溝たかみぞ村の西、みなと川上流右岸にある。「本土寺過去帳」に「妙田 弥富大田和 文亀元辛酉六月」とみえる。正保国絵図では大和田とし、高二一八石。寛文四年(一六六四)の松平忠勝領知目録(寛文朱印留)に大多和村とあり、佐貫藩領。支配領主の変遷田原たばら村と同様。元禄郷帳では高二一一石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数三三。文政一〇年(一八二七)の農間渡世取調書(川崎家文書)では反別一六町四反余、人数一五四、家数三二のうち農間商渡世は鍛冶商売一軒。


大田和村
おおたわむら

[現在地名]小高町大田和

東流する小高川の流域に位置し、東は小屋木こやぎ村、北は飯崎はんさき村。正保郷帳では田方八五石余・畑方五三石余。明暦二年(一六五六)の高一八三石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高一五三石余。なお元禄検地高は二八四石余、ほかに新田二五石余がある(奥相志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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