武村(読み)たけむら

日本歴史地名大系 「武村」の解説

武村
たけむら

[現在地名]鹿児島市武一―三丁目・西田にしだ二―三丁目など

武岡たけおかと称するシラス台地とその東の平坦地からなる。北は西田にしだ村、西は田上たがみ村、南は田上川を境に荒田あらた村。田毛・嶽とも記された。建徳三年(一三七二)八月二八日の禅恵譲状(旧記雑録)に鹿児島郡のうち「たけのむら」とみえ、禅恵(惟宗姓国分友重)が子息二郎四郎(久成)当地の諸門の田地山野を譲与している。応安七年(一三七四)一二月五日、久成は当村内の諸門を「とよまさ」に譲っている(「惟宗久成譲状」羽島文書)。応永一〇年(一四〇三)一一月二九日、奥州家島津元久は総州家島津伊久との合戦で勢力挽回を図るため宿敵渋谷重頼に旧領の山北の地を回復するまでという条件付きで武之村と成河なりかわ(現山川町)を与えている(「島津元久宛行状」旧記雑録)。同三二年六月一日、蒲生忠清から村内の宮丸崎五反などが父の菩提料として(「島津忠国加判蒲生忠清寄進状」同書)、永享六年(一四三四)八月二九日、西郷親昇から武のうち水まち五反が鹿児島福昌寺に寄進されている(「西郷親昇寄進状」同書)

武村
たけむら

[現在地名]桜島町武

赤生原あこうばる村の北東に位置する。嶽とも記された。天文六年(一五三七)一二月二四日の島津勝久宛行状(旧記雑録)に「嶽」とみえ、本田董親をむかい(桜島)の地頭に任じ、当地などを与えている。元亀二年(一五七一)肝付・伊東・伊地知・根占各氏の連合軍が鹿児島・桜島を襲撃した際、嶽周辺でも戦闘があり(「長谷場越前自記」同書)、一一月二〇日島津方の武石見守が武村の海岸で戦死している(殉国名藪)

武村
たけむら

[現在地名]横須賀市武一―五丁目

武山たけやま丘陵の西および北に村域があり、東は長沢ながさわ村・岩戸いわと村、西ははやし村、南は津久井つくい村、北は大田和おおたわ村・衣笠きぬがさ村・大矢部おおやべ村の三村に接する。

吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一一月日条に記された源頼朝入洛の随兵のなかに武次郎の名があり、「風土記稿」はこの地の住人かとする。文安五年(一四四八)一二月三〇日の室町幕府奉行人連署奉書(県史三)によれば武など四ヵ村は京都醍醐寺地蔵院の支配とされた。地蔵院は判門田壱岐入道祐元を代官として四ヵ村を治めさせた(宝徳二年一〇月一一日付「室町幕府管領奉書案」同書)

武村
たけむら

[現在地名]二丈町武

田中たなか村の南に位置する。正保郷帳に村名がみえ、田四九四石余・畠三四石余。元禄国絵図では高六五六石余。領主変遷松末ますえ村と同じ。天保三年(一八三二)の中津藩領郷村高帳下書では高六五六石余・同所新畑二斗余。元文―寛保(一七三六―四四)の頃から寛政一一年(一七九九)まで当村の原田家に中津藩役人の詰所が置かれた(二丈町誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報