山中郷(読み)やまなかごう

日本歴史地名大系 「山中郷」の解説

山中郷
やまなかごう

三河高原の御油ごゆ断層地帯の総称。「荘園志料」では大幡おおはた村・本宿もとじゆく村・鉢地はつち村・上衣文かみそぶみ村と下衣文村(現額田郡額田町)の五ヵ村を入れている。しかしこれに加えて、中山なかやま庄に属するという舞木まいぎ村・山綱やまつな村・池金いけがね村・羽栗はぐり村までは山中郷と考えられる。「和名抄」額田郡内の「駅家」郷ならびに、「延喜式」(兵部省)所載の「山綱駅」は、この山中郷内の地に比定されている。

永禄元年(一五五八)の「実暁記」の京鎌倉六十三次の中に「矢波木二里、作岡五十丁、山中五十丁、赤坂二里」とある。歌枕や紀行文などに「二村山」「山中の里」として詠まれる地は、尾張と三河の境にあてられる一ヵ所と、三河国額田郡と宝飯郡宮路みやじ(現宝飯郡音羽町)までの間の地の一ヵ所とが考えられている。天暦年中(九四七―九五七)の成立とされる僧増基の「いほぬし」に鳴海なるみ(現名古屋市)から国府こう(現豊川市)の中間の記事として「からくにのにしなりとてもくらへみむ二村山の錦にはにし」とみえる。「更級日記」では高師たかし(現豊橋市)八橋やつはし(現知立市)、二村山の宿・宮路山、鳴海の順に記されている。


山中郷
やまなかごう

郡の中央北部、ごうの川水系に属する戸張とばり川・黒淵くろぶち川・山福田やまふくだ川・馬洗ばせん川とその支流域一帯を郷域とする中近世郷。「芸藩通志」には、山中庄六ヵ村として山中福田やまなかふくだ長田ながた(現世羅西町)徳市とくいち安田やすだ・黒淵・戸張(現世羅町)の各村をあてる。

山中郷の初見は貞応二年(一二二三)一一月日付備後国大田庄地頭大田康継同康連連署陳状案(高野山文書)で、「康継之知行山中郷公文職事」「山中郷善福寺」「山中郷内黒淵村」とある。「和名抄」にみえる鞆張とばり郷は斗張とばり(戸張)郷となり、上記六ヵ村を郷域としたが、永万二年(一一六六)大田おおた庄立券で戸張保が大田庄内に組込まれた際に斗張郷は戸張保・斗張村と同義に使われるようになり、代わって山中郷が旧斗張郷域を示す名となった。嘉禎二年(一二三六)九月二七日の備後国大田庄山中四郷在家目録(同文書)には、山中四郷として安田・斗張、吉田よしだ(現世羅町徳市・双三郡吉舎町徳市)溝熊みぞくま(現世羅西町山中福田)があり、合わせて在家一二三宇、うち除六六宇、定在家五七宇とある。除分には地頭・公文・専当・定使・田所・惣追捕使などの屋敷や、四社の八幡宮の神主、今高野山いまこうやさんの供僧屋敷などがあった。


山中郷
やまなかごう

堀之内ほりのうちの山中を遺称地とし、堀之内一帯に比定される。根津家蔵の鰐口の応永一〇年(一四〇三)一二月二六日銘に伊北いほう庄山中郷明王堂とある。「本土寺過去帳」によれば長禄二年(一四五八)七月一二日「伊北山中ノ御上」で妙随尼が死去している。江戸初期まで広域名称として残り、慶長二年(一五九七)の伊北庄山中郷御縄打水帳(堀之内区有文書など)が残る。これは小谷松こやまつ部田へた八声やこえ・堀之内・大戸おおと石神いしがみの山中郷六ヵ村分が記されたもので、親村の堀之内村で保管されていた(元禄七年「覚書」高師家文書)

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改訂新版 世界大百科事典 「山中郷」の意味・わかりやすい解説

山中郷 (やまなかごう)

三河国額田郡(現,愛知県岡崎市)にあった中世の郷。古代の額田郡駅家郷あるいは山綱(やまつな)駅があり,近世の本宿(もとじゆく),山綱,舞木など9村の範囲と推定される。1377年(天授3・永和3)当時は室町将軍料所で,南方北方合わせて40名(みよう),公田35町8反余,米,麦,糸,麻,宿地子等の年貢合計630貫863文。80年(天授6・康暦2)足利義満が東寺の西院造営料所に寄進し,91年(元中8・明徳2)将軍料所に復したが,この間奉公衆島田弥次郎が300貫文で年貢を請け負っていた。1465年(寛正6)には政所執事伊勢貞親管轄の料所。1432年(永享4)足利義教の駿河下向に従った尭孝の《覧富士記》に〈山中の宿にて御ひるまのほどにぎはゝしさもかぎりなし〉と宿駅としてのにぎわいが記されるなど,古代以来の東海道交通上の要地で,その中心本宿には,14世紀末葉に西山浄土宗法蔵寺が教翁竜芸によって創建されていた。近世に東海道藤川宿が設けられると,宿駅の機能は失われた。
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百科事典マイペディア 「山中郷」の意味・わかりやすい解説

山中郷【やまなかごう】

三河国額田(ぬかた)郡内にあった中世郷。愛知県岡崎市から額田郡額田町(現・岡崎市)にかけての地に比定される。1377年時には室町幕府料所で南方・北方に分かれ,南方は18名,北方は24名に編成されていた。公田は計35町8反余,宿地子などを含む年貢の合計は630貫873文。1380年には足利義満により東寺西院造営料所として寄進され,1391年には年貢200貫文分が幕府料所に復し,伊勢貞行に宛行(あておこな)われた。また古代以来の東海道沿いの要所で,1432年の将軍足利義教の駿河下向に随行した僧尭孝の《覧富士記》には〈山中の宿にて御ひるまのほどにぎはゝしさもかぎりなし〉と記される。1601年藤川(現岡崎市)が東海道の宿に指定されると,宿駅としての機能は失われた。なお郷内舞木(まいぎ)には,西郷氏さらには岡崎松平氏の拠った山中城跡がある。

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