大船建造の禁(読み)たいせんけんぞうのきん

山川 日本史小辞典 改訂新版 「大船建造の禁」の解説

大船建造の禁
たいせんけんぞうのきん

1635年(寛永12)6月の武家諸法度に規定された500石積以上の船の禁止令。1609年(慶長14)9月に西国大名の水軍力抑止のため行われた大船の没収以来,西国では500石積以上の船が禁止されたが,大船建造の禁はこれを全国に及ぼしたもの。禁令の対象は領内のすべての在来形の軍船商船で,水軍に無用の航洋船は除かれた。商人の不便が幕府に聞こえ,38年5月商船に対する制限は撤廃以後,軍船不要の平和な時代が長く続いて禁令は死文化した。また,さまざまな解釈を許す条文だったため,対外的な危機の時代を迎え海防論が活発化する幕末期には,鎖国維持を目的として航洋船とりわけ洋式船を禁じる法と解釈された。ペリー来航3カ月後の1853年(嘉永6)9月解禁。なお鎖国のための2本以上の檣(しょう)(帆柱)と竜骨の禁止説は,幕末~明治期に行われた俗説が学説化したもの。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大船建造の禁」の意味・わかりやすい解説

大船建造の禁
たいせんけんぞうのきん

江戸幕府の出した造船の禁令。1609年(慶長14)幕府は西国諸大名の所有する500石以上の軍船を没収し、かつ建造を禁止した。さらに35年(寛永12)には武家諸法度(ぶけしょはっと)を改定して、諸大名の500石以上の船の所有禁止を法文化した。諸大名の軍備を制限する目的であった。しかし38年、荷船商売船)についてはこの禁令から解除され、以後江戸時代を通じて廻船(かいせん)による活発な海運活動が展開された。1853年(嘉永6)に至り、大名の大船建造の禁止が全面的に解除され、61年(文久1)には、百姓、町人の大船所有をも許し、国内海運に西洋型船を導入しようとしたが、その成果をみないまま、幕府は崩壊してしまった。

[柚木 学]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大船建造の禁」の意味・わかりやすい解説

大船建造の禁
たいせんけんぞうのきん

江戸幕府が封建体制維持策の一環として発した禁令。慶長 14 (1609) 年に,西国諸大名に対してその武力を制限するために 500石積み以上の大船を収公破棄し,建造を禁じたのに始り,寛永 12 (35) 年の『武家諸法度』で成文化され整った。この制限は同 15年商船に限り解かれたが,幕末の嘉永6 (1853) 年には海防上の必要から全面的に解禁となり,幕府も諸大名も海軍軍船の建造に努め,海軍力の増強を急いだ。

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世界大百科事典(旧版)内の大船建造の禁の言及

【造船業】より

…イギリス造船業との著しい生産力格差を埋めるべく要請された大規模な固定資本投資は,民間業者の耐えうるところではなく,幕府等によって担われざるをえなかった。幕府は1853年に寛永以来の〈大船建造の禁〉を解除して横須賀の浦賀に造船所を開設し,これが日本近代造船業の出発点となった。次いで56年に水戸藩が江戸の石川島に,幕府が長崎に修理工場を建設した。…

【武家諸法度】より

…江戸幕府が武家の守るべき義務を定めた法令。天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…

※「大船建造の禁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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