武家諸法度(読み)ブケショハット

デジタル大辞泉 「武家諸法度」の意味・読み・例文・類語

ぶけ‐しょはっと【武家諸法度】

江戸幕府諸大名統制するために制定した法令。元和元年(1615)徳川家康の命により2代将軍秀忠のときに発布された13箇条が最初。その後必要に応じて改訂された。城の修築婚姻参勤交代などについて規定

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精選版 日本国語大辞典 「武家諸法度」の意味・読み・例文・類語

ぶけ‐しょはっと【武家諸法度】

  1. 江戸幕府が、大名を統制するために公布した法令。公家諸法度などとともに、江戸幕府の基本法。元和元年(一六一五)に発布され、その後若干の追加訂正が行なわれたが、八代将軍吉宗没後は天和三年(一六八三)制定のものを襲用した。文武の道に専念すべきことをはじめとして、築城、婚姻、参勤交替、造船、関所などについて規定され、将軍宣下ののち、諸大名に読み聞かせるのを慣例とした。

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改訂新版 世界大百科事典 「武家諸法度」の意味・わかりやすい解説

武家諸法度 (ぶけしょはっと)

江戸幕府が武家の守るべき義務を定めた法令。天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。個々の個条は,従来の武家諸法を中心に日本,中国の古典から抜書きしたものが多く,独自性は薄いが,その意義はこれを集成したところにある。すなわち,戦国大名のもとで大名の領国支配と分国法が原則的に確立された事実をうけて,武家諸法度は領国支配者である大名を統制する法として成立した。大名は各領国においては公儀として領民に臨み,そのことによって領域的支配の正当性を認められていた。法度が著しく道徳的・儀礼的性質を帯びているのは,大名に公儀としての自覚を求めたものとみることができる。そこに法度の特質があった。

 29年(寛永6)秀忠の手で朝廷参勤作法など2条が削訂されたが,35年の家光政権による改訂は画期的なもので,文体は漢字仮名交り書下し体,全文19ヵ条となり,内容も新たに大名の在江戸(参勤)交代義務を定め,城郭新築禁止・修理届出,道路交通の保障,私関の禁止,500石以上の大船建造停止,寺社領の固定などを加え,その後の定型を完成した。この改訂で注目されるのは,大名のほかに将軍の近習(きんじゆう),物頭(ものがしら)を法度の対象に組み込み,彼らによって構成される行政,裁判,刑罰執行の機関を大名領主の上位機構と規定し,それへの服従を指定した点である。これによって,幕府が中央の公儀として諸藩を統括する幕藩体制の基本的構造が確立した。以後,これをもとに63年(寛文3)4代家綱のとき,耶蘇宗門(キリシタン)の禁止,不孝者処罰の2条を付加,5代綱吉は83年(天和3)個条を整理,統合して15条とし,養子の制を定め,殉死を禁止した。旗本御家人に対しては,これまで諸士法度(1632初定)が適用されてきたが,綱吉のときから武家諸法度にのっとることとなった。6代家宣の1710年(宝永7)の法度は新井白石の起草にかかり,17条から成る流麗な和文体であったが,1717年(享保2)8代吉宗は綱吉の天和法度にもどし,それより代々天和法度が用いられることになった。うち,幕末ペリー来航の翌1854年(安政1),13代家定の法度は,大船製造を届出制により許可した。武家諸法度に処罰規定はなかったが,幕府は違反者に厳重な処罰を加えることによって,大名統制に巧妙に利用した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「武家諸法度」の意味・わかりやすい解説

武家諸法度
ぶけしょはっと

江戸幕府が制定した大名統制の基本法令。

[藤野 保]

元和令

徳川家康は覇権確立以降、幕府を創設し、全国統治権に対する倫理的基礎を公的に確定したうえで、法の制定と制度の整備・運用を通じて大名統制を強化した。すなわち、1615年(元和1)大坂落城後、6月には「一国一城令」を発布して、大名の本城を除くすべての支城を破壊させたうえで、翌7月「武家諸法度」を制定・公布した。この元和(げんな)法度は、家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草し、2代将軍秀忠(ひでただ)の名をもって発布したもので、全13か条よりなる。その内容は、大名の教養・品行、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、城郭修理の報告、徒党の禁止、婚姻の許可、参勤作法(さほう)、大名の国政などについて規定した。全体として目新しいものはないが、武家法としての体系を整えながら、違反者に厳しい態度で臨んだところに、その意義があった。

[藤野 保]

寛永令

その後、3代将軍家光(いえみつ)の1635年(寛永12)大改訂が行われ、林羅山(はやしらざん)が起草し、家光の承認を得て発布された。この寛永(かんえい)法度は、元和法度が抽象的な原則にとどまったのに対し、より具体的な細目を掲げ、新しい時勢に応ずる幕政の根本原則を確定したところに、その特色があった。大名の参勤交代を制度化し、500石積み以上の大船を禁じ、大名の国政について拘束を加えたことなどは、その現れである。この寛永法度の制定により、法による幕府の大名統制はいっそう強化された。

[藤野 保]

その後の法令

ついで4代将軍家綱(いえつな)の1663年(寛文3)ふたたび改訂が行われた。この寛文(かんぶん)法度は、新たに耶蘇(やそ)教禁止と不孝者の処罰規定を加えたほかは、ほとんど旧法の辞句の修正にとどまり、殉死の禁令は条外として口上にて発表された。この殉死の禁令は大名証人制の廃止とともに、武断政治より文治政治への政策転換を示している。5代将軍綱吉(つなよし)が1683年(天和3)に発布した天和(てんな)法度は、この文治主義をいっそう顕著に示している。ついで新井白石(あらいはくせき)の改訂になる6代将軍家宣(いえのぶ)の1710年(宝永7)に発布した宝永(ほうえい)法度は、儒教の仁政思想に基づく文治主義の精神を最高に現している。しかるに、8代将軍吉宗(よしむね)は、享保(きょうほう)の改革の一環として、側近政治を否定する一方、1717年(享保2)には宝永法度を退けて、綱吉が制定した天和法度を復活した。以上のように、「武家諸法度」は将軍の代替りごとに必要に応じて改訂され、その意味で幕政の変化を示したが、その後1854年(安政1)に若干の修正が加えられたほかは、まったくこの天和法度が踏襲された。

[藤野 保]

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百科事典マイペディア 「武家諸法度」の意味・わかりやすい解説

武家諸法度【ぶけしょはっと】

江戸幕府が武家統制のため定めた基本法。1615年豊臣氏滅亡直後伏見城に諸大名を召集,崇伝の起草になる13ヵ条の法度を発布したのが最初。将軍の代替りごとに発布,大名に読み聞かせるのが通例となった。謀叛(むほん)人・殺害人の召抱禁止,居城の修理制限,築城厳禁,無届婚姻の禁止,参勤作法などを内容とするが,3代家光の時参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヵ条となり以後も若干の改訂がみられる。違反者は厳罰に処され,特に初期には武家諸法度違反がたびたび大名改易の理由にされた。→禁中並公家諸法度寺院法度
→関連項目一国一城令江戸幕府大名行列徳川家光徳川家康幕藩体制法度法度・村掟武家法松平信綱

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「武家諸法度」の解説

武家諸法度
ぶけしょはっと

江戸幕府の対武家法規。将軍の代替りごとに発布。ただし7代徳川家継と15代慶喜(よしのぶ)を除く。大坂夏の陣終結後の1615年(元和元)7月,伏見城に諸大名を集め,はじめて公布。徳川家康の命で以心崇伝(いしんすうでん)らが起草し,漢文体で13カ条からなる。建武式目などの先行法規を参考に,武家,とりわけ大名の守るべき事柄を定めた。翌年,2代秀忠は諸大名の京都への参勤作法など2カ条を削除し,29年(寛永6)には乗輿の条項を修正。3代家光の35年に公布された法度は,字句や内容を大幅に改訂。江戸への参勤交代制などを定め,国主資格条項を削って19カ条とした。4代家綱の63年(寛文3)法度ではキリシタン禁止など2カ条を付加,5代綱吉の83年(天和3)法度では条文を15カ条に整理した。6代家宣の1710年(宝永7)法度は新井白石が起草,和文体で17カ条。17年(享保2)8代吉宗は天和の法度に戻し,以後代々これを継承した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「武家諸法度」の意味・わかりやすい解説

武家諸法度
ぶけしょはっと

江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法。武家とは大名をいう。徳川家康が元和1 (1615) 年大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした直後,諸大名を伏見城に集め,これを発布したため『元和令』ともいう。文武をたしなむべきこと以下居城修補の届出制,婚姻の許可制,参勤交代制など基本的義務 13条を定めている。3代将軍徳川家光のとき 19条となり,その後若干の改訂を経,8代吉宗のとき,5代綱吉の『天和令』を採用してから,幕末までほぼこれによった。将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ,これに違反した大名に厳罰を加えた。5代綱吉は,『武家諸法度』を改訂し,天和3 (83) 年以後『諸士法度』に代えてこれを旗本にも適用した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「武家諸法度」の解説

武家諸法度
ぶけしょはっと

江戸幕府が大名統制のために制定した基本法
1615年,豊臣氏が滅亡してのち,徳川家康が諸大名を伏見城に集め,将軍秀忠の名で発布したのが最初。大名の心得,居城新築の禁止と修築の届出義務,婚姻の許可制,参勤交代の作法などを規定した。この元和の法度13カ条は金地院崇伝 (すうでん) の起草で漢文体。3代将軍家光時代,寛永12年('35)の法度は参勤交代の制度化など具体的かつ詳細となり(19カ条),いちおうの完成をみた。将軍の代替りごとに修正されて発布され,大名に読み聞かせ,違反した大名は厳重に処罰された。

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世界大百科事典(旧版)内の武家諸法度の言及

【江戸幕府】より

鎖国は貿易管理の意義もあるが,それ以上に在来の宗教,文化とあまりにも異質なキリスト教文明の侵入により幕府の支配の根底がくずされることを防ぐものであり,琉球,朝鮮,オランダ人などの江戸参府の行列は幕府の統治能力を沿道の貴賤に示すデモンストレーションであった。 次に大名に対しては,〈武家諸法度〉などによって参勤と妻子を江戸に住まわせることを強制し,また城をかってに修理することを禁止するなど,規定以上に武力を蓄えることを防止した。さらに婚姻を許可制とするなど相互に同盟して謀反を起こすことのないように統制したほかに,随時に築城や河川の御手伝普請を命じて大名の財力を削減させる措置を講じた。…

【婚姻】より

…上級武士である大名や中以上の旗本では,婚姻は幕府の統制下に置かれた。1615年(元和1)の武家諸法度では,私に婚姻を結ぶことを禁じ,17年の武家諸法度になると,1万石以上の大名や,旗本のうち近習の物頭は自由に結婚することを禁じて,より範囲を明確にした。これは徒党を結んで幕府に敵対することを防ぐためであった。…

【参勤交代】より

…ここに従来の豊臣系大名による大坂,駿府,江戸各城への参勤形態は消滅し,江戸参勤へと統一される。15年(元和1)大坂夏の陣後の武家諸法度は,その第9条に〈諸大名参覲作法之事〉として,京都二条城ないし伏見城における徳川氏への諸大名の参勤規定を掲げているが,29年(寛永6)の武家諸法度では削除され,事実上隔年の江戸参勤をふまえて,35年6月21日の武家諸法度の第2条において,〈大名小名在江戸交替所相定也,毎歳夏四月中可致参勤〉と定め,大名は毎年4月交代で江戸に参勤することが正式に制度化された。42年には,従来在府中の譜代大名に6月または8月の交代,関東の譜代大名に2月,8月の半年交代,さらに城邑を占める大名には交互の参勤を命じ,ここに参勤交代制は全大名に一般化されるに至った。…

【徳川家光】より

…老中・若年寄・三奉行(寺社・町・勘定)のほか,大目付・巡見使等の職務と権限を定め,評定所(ひようじようしよ)の構成と機能をととのえた。35年武家諸法度を改訂し,諸大名に参勤交代を義務づけ,譜代・外様を問わず大名の格を万石以上と規定するとともに,将軍家の近習(きんじゆう)・物頭(ものがしら)を大名と同列として幕府政治の基礎を固めた。対外的には,長崎の直接掌握を果たした33年から36年にかけて貿易統制とキリシタン禁令を強化し,ついに日本人の海外往来を禁止,39年にはポルトガル船の来航を止め,41年長崎出島にオランダ商館を移して鎖国体制を完成した。…

【藩法】より

…ただし藩法という名称は,明治になって用いられたもので,江戸時代には〈家法〉〈国法〉などと呼ばれた。宗門改め,度量衡,交通など江戸幕府の全国的支配権に属することを除けば,藩はかなりの自律を認められ,〈万事江戸之法度の如く,国々所々に於て之を遵行すべし〉(寛永12年武家諸法度)といった限定はあるものの,各藩はそれぞれ別個の藩法を施行した。一方,幕府制定法には,諸大名にも触れ知らせる法と,幕府領のみに発する法とがあった。…

※「武家諸法度」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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