赤土村(読み)あかつちむら

日本歴史地名大系 「赤土村」の解説

赤土村
あかつちむら

[現在地名]小笠町赤土

棚草たなくさ村の南、牛淵うしぶち川の支流丹野たんの川の下流左岸(牛淵川左岸)に位置し、村の西端で両川が合流する。南は高橋たかはし村・河東かとう村。中世には一帯に近江延暦寺千僧供領赤土庄が成立。「天台座主記」によると、建久九年(一一九八)千僧供領であった赤土庄の供料納入の責任者は執当実誓であったが、僧侶に配分される別僧供料が減少したため、実誓の責任を問う勢力と実誓との対立が起き、同年九月一六日、実誓は院宣により出雲国に流罪になる。文暦二年(一二三五)三月一一日の法眼某奉書(長命寺文書)によると、赤土庄からの千僧供料の支給が滞ったため、近江長命ちようめい(現滋賀県近江八幡市)の所領が伊賀竪者某に返付されている。文和四年(一三五五)天台座主尊道は座主任命からまもなく千僧供領四ヵ庄の奉行を決め、赤土庄は兵部卿法眼某に安堵されており(同年一一月一六日「尊道親王令旨写」妙香院宮御参務日記)、さらに文明三年(一四七一)五月二五日の天台座主尊応御教書写(華頂要略)では、赤土庄の千僧供納入責任者を乗養坊法印某に命じており、赤土庄は千僧供領として一五世紀後半まで命脈を保った。


赤土村
あかつちむら

[現在地名]金沢市赤土町

犀川下流西岸、ふたでら村の西に位置する。中世には大野おおの庄のうち。正中二年(一三二五)九月二四日の大野庄藤江村等田数注文(天龍寺文書)に「赤土村」とみえる。領家方に属したと推定され、総田数三二町一反五代、定田一五町一反五代(米二二〇石三斗五升四合)、畠四町一反四五代(大豆七二石九斗六升)、銭三九貫七九文・綿四両一分三朱六累と注進される。村域に宮腰みやのこしを含み(→宮腰町、当村の除田の比率が高いことなどから、同所に大野庄政所が所在していたと推定される。一方、同日付の大野庄西条村等田数注文(同文書)には地頭方に属したと思われる赤土新保がみえる。同新保は総田数一〇町五反三〇代、定田七町七反(米六八石九斗)、畠二町九反三五代(大豆八石九斗一升)、銭一八〇文と注進された。永享九年(一四三七)には「赤土村之内中九郎名之散畠等」などの得分「舟斗之定拾斛」が心休禅門追薦料として、大野湊住人彦左衛門茂重によって臨川りんせん(現京都市右京区)に寄進された(同年五月七日「茂重寄進状」同文書)


赤土村
あかつちむら

[現在地名]下郷町戸赤とあか

戸石といし村の南、阿賀川支流戸石川上流の井戸いど沢左岸の山村。下野街道から水抜みずぬき村で分岐し、当村南境の赤土峠越で高野こうや(現田島町)に至る道(戸石郷筋)が通る。的場まとばたいらしもたいら縄文土器の出土する遺跡がある。南山御蔵入領楢原組に属する。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」では楢原ならはら郷のうちに村名がみえる。貞享二年(一六八五)の「楢原郷地下風俗覚書」によれば、養蚕を行い、用材の伐り出しを行っていた。元禄四年(一六九一)の万覚書帳(下郷町史資料集)によれば、高四一石余、反別田七反余・畑一七町八反余、家数一五・竈数一九、人数八〇、馬八。


赤土村
あかつちむら

[現在地名]金砂郷村赤土

あさ川の上流部の東側に位置し、集落は赤土川・中沢なかざわ川などの浅川支谷にある。北は上宮河内かみみやかわち村。「新編常陸国誌」によると新宿あらじゆく(現常陸太田市)諏訪明神の文和四年(一三五五)の文書に「赤土十八貫」とみえるという。文禄四年(一五九五)の佐竹知行割では義宣の蔵入地となり、翌五年の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)には「赤土」と記される。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「赤土村」とある。同一五年の御代官郷高帳(「田制考証」所収)によると八五石分が水戸藩蔵入地となる。

当村は水府煙草の起源の地、名産地として知られ、「古事類苑」(植物部)によると林羅山は徳川光圀からの煙草贈与に対し「赤土ハ君ノ封国内ノ地ニシテ此草良産ノ勝区ナリ」と答礼している。


赤土村
あかつちむら

[現在地名]春野町砂川いさがわ

大時おおとき村の西、南西流する不動ふどう川上流右岸、高塚たかつか山南斜面の山腹にある。「遠江国風土記伝」によれば、当村と嶺沢頭みねさわがしら村・徳瀬とくぜ村を合せて砂川郷と称した。永禄一二年(一五六九)閏五月二〇日の徳川家康判物写(和田文書)には渡辺三左衛門尉に宛行われた「犬居之内本知行」のうちに「熊切之内伊佐賀」がある。正保郷帳に赤土村とみえ、永二貫文。松雑木草山と注記される。江戸初期から幕府領、享保郷村高帳では掛川藩預所。その後幕府代官支配に復した(「春野町史」など)


赤土村
あかつちむら

[現在地名]守門村赤土

破間あぶるま川左岸にある。南の赤土五右衛門あかつちごうえもん新田・真平まひら新田と東の赤土権四郎あかつちごんしろう新田は、ともに当村の枝村。正保国絵図に村名がみえ、高二三石余。天和三年郷帳では堀之内組に属し、高三六石三斗余、ほかに同所新田高四石余がある。五右衛門新田は高一六石五斗余、権四郎新田は高五石二斗余、真平新田は一三石七斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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