藤江村
ふじえむら
[現在地名]大垣市藤江町・二葉町・長井町・羽衣町・恵比寿町・恵比寿町南・恵比寿町北・花園町・旭町・千鳥町・橘町・鹿島町・住吉町・早苗町・錦町
新規川右岸の平坦地、大垣輪中の中央に位置し、西は大垣城下に接する。村内を美濃路が通る。延文四年(一三五九)一〇月二五日の童女売券(東大寺図書館蔵)に「永売渡大井御庄友清名内屋敷畠事 合壱段者、在坪藤江 民部垣内」とみえ、東大寺領大井庄の庄域であった。
藤江村
ふじえむら
[現在地名]明石市藤江・藤が丘一―二丁目・西明石西町一―二丁目・貴崎五丁目・別所町・東藤江一―二丁目
西松江村の西にあり、南は播磨灘に面した海辺沿いの村。西浦辺組に所属。古代明石郡葛江郷(和名抄)の遺称地。藤江川の流域に位置し、海岸線一帯は屏風ヶ浦とよばれた名勝。「万葉集」巻三に収める柿本人麻呂の歌に「荒たへの藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行くわれを」がある。
慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田高六七二石余・畑高二六七石余。
藤江村
ふじえむら
[現在地名]金沢市藤江北一―四丁目・藤江南一―三丁目
北村・二ッ屋村の西に位置し、宮腰往来が横断する。「ふんじ」「ふんぜ」ともよばれた。中世には大野庄のうち。正中二年(一三二五)九月二四日の大野庄藤江村等田数注文(天龍寺文書)に村名がみえ、地頭方に属したと推定される。同注文では総田数三〇町四反二五代、定田二四町一反五代(米三八一石余)、畠八反四五代(大豆二石六斗余)、銭一六貫六二九文・綿一九両二分三累と注進されている。
藤江村
ふじえむら
[現在地名]安曇川町四津川
松ノ木内湖の北にあり、北は川島村。「吾妻鏡」暦仁元年(一二三八)九月二〇日条に「安曇川御厨内藤江村」とあり、幕府は守護使入部の停止を命じている。古くは東隣の今在家村と合せて四津川村と称した。四津川の名は松ノ木内湖に注ぐ四本の川からきているという。往古は藤江千軒とよばれ、現集落より東に数百軒の人家があったが、豊臣秀吉による大坂築城に際し、瀬田川の流れを止めた結果水没したという(高島郡誌)。
藤江村
ふじえむら
[現在地名]鹿沼市藤江町
茶臼山の西麓にあり、西縁を黒川が南流する。北は大和田村・植野村、南は羽生田村(現下都賀郡壬生町)・赤塚村、西は黒川を隔てて磯村。慶安郷帳では田二六一石余・畑二一一石余、壬生藩領。元禄郷帳では旗本三浦領。明和二年(一七六五)の開発地等見分願書(鹿沼市史)によれば、宝暦二年(一七五二)から幕府領。
藤江村
ふじえむら
[現在地名]東浦町藤江・生路
東は知多湾、西と北は石浜村・生路村に接する。東浦街道沿いにあり、ここで乙川村と亀崎村(以上現半田市)への道が分れる。
「寛文覚書」では概高六五七石四斗余、田地三五町九反余、畑地九町三反余、ほかに寛文一〇年(一六七〇)の新田七六石余がある。家数八二、人数六二七とある。「徇行記」によれば、民家は「ソロヒタル所」で、工匠五―六人、黒鍬稼は三―四人、酒屋が二戸、波不知船一艘があり、塩屋一五戸は「海ヲ焼キ産業トセリ、塩ハ名古屋・津島・勢州桑名アタリヘ送リ」という。
藤江村
ふじえむら
[現在地名]会津高田町西尾
宮川上流右岸にあり、北の冑村から塩坂を上った小丘上にある。宮川に塩坂橋が架かるが、その位置は洪水のために何回か移動し、大正三年(一九一四)の洪水後現在地に架けられた。近世は会津領から寛永二〇年(一六四三)以降南山御蔵入領で、冑組に属した。
藤江村
ふじえむら
[現在地名]福山市藤江町
金見村の南に位置、西方は松永湾に面して半農半漁のほか塩田もあった。金見の八幡神社を産土神とするというので(福山志料)、あるいは中世藁江庄に含まれていた可能性がある。元和五年(一六一九)の備後国知行帳では七〇〇石余、元禄一三年(一七〇〇)の備前検地の結果六〇九石余に減少。これは金見村独立に伴って村域の変更があったためと思われる。同高を記す「備陽六郡志」によれば田方二八七石余(二〇町八反余)・畠方三二二石余(四八町四反余)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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