大野湊神社(読み)おおのみなとじんじや

日本歴史地名大系 「大野湊神社」の解説

大野湊神社
おおのみなとじんじや

[現在地名]金沢市寺中町

金沢市北西部、寺中じちゆう町の西部に位置する。旧県社。三棟の本殿(いずれも寛永一六年の造立で、県指定文化財)に祀る八幡大神(八幡社本殿)・猿田彦大神(佐那武社本殿)天照大神(神明社本殿)の三神を主祭神とし、相殿神として春日四柱大神・西乃宮大神(事代主神)・白山菊理姫命・荒魂大己貴神などを祀る。なお現在本殿三棟の中央には八幡社本殿が位置する。同社殿は左右本殿より一際大きく、三神のうちで八幡大神が主神と考えられよう。しかし、万治二年(一六五九)の社殿修理願(国事雑抄)や寛文九年(一六六九)の社殿破損願では主殿を神明社、両脇がほかの二社(あるいはその本地仏)としており、かつては神明社(天照大神)が主神であり、寛政期(一七八九―一八〇一)頃に現在の姿へと変化したものと思われる。「延喜式」神名帳にみえる加賀郡の同名社の後身とされるが、中世には臨川りんせん(現京都市右京区)領大野庄の総鎮守で佐那武さなたけ社と称され、近世には佐那武大明神、あるいは所在地から「寺中さらたけ明神」(慶長九年「前田利長判物写」大野湊神社文書、以下断りのない限り同文書)、寺中社などともよばれた。

社伝によれば神亀四年(七二七)奥州の住人で佐那という者が海中から神体を引揚げ、以前より神明・八幡・春日の三社が鎮座していた大野庄真砂まなご竿林さおばやし合祀したところ、佐那武大宮大明神の号を得たという。しかし、建長年間(一二四九―五六)頃、社殿・神宝などを残らず焼失したため、旧社地の八町ほど東方にあたる現在地に移ったといわれる(寺社由来)。また当地の伝えによれば往昔、北接する宮腰みやのこしの海浜、佐良さら嶽の麓に大野湊があり、同湊の守護のため佐良嶽に大野湊神社を祀っていた。しかし、波濤のために佐良嶽が崩壊、神社は海中に没し、湊も埋没したといい、宮腰の地名も大野湊神社の麓に位置したために生じたものという(加賀志徴)。昭和四〇年(一九六五)西隣の普正寺ふしようじ町内の犀川河口左岸で砂に埋没した鎌倉―室町時代の臨海集落遺跡、普正寺遺跡が発掘されて海岸砂丘地における波・風による地形変動が確認されたが、寿永二年(一一八三)五月、礪波となみ山から敗走した平氏軍が「佐良嶽ノ浜」に陣取り、「佐良嶽山ニ赤旗」を差上げたとの「源平盛衰記」巻二九(礪並山合戦事)の記述も旧社地とされる佐良嶽(山)が海岸砂丘地であったことを示している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大野湊神社」の意味・わかりやすい解説

大野湊神社
おおのみなとじんじゃ

石川県金沢市寺中町(じちゅうまち)に鎮座。祭神は護国八幡大神(ごこくはちまんおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、天照坐皇大神(あまてらしますすめおおみかみ)のほか、相殿(あいどの)に二神を祀(まつ)る。社伝によると、727年(神亀4)、陸奥(むつ)国(青森県、岩手県)の佐那が猿田彦大神を勧請(かんじょう)したのが創祀(そうし)というが、不明。延喜(えんぎ)式内社。元は大野荘(しょう)15か村の総社で、宮腰浜の真砂(まさご)山に鎮座していたが、年々風浪の害があり、後深草(ごふかくさ)天皇の代、1252年(建長4)に社殿炎上のため現在地に遷した。加賀藩主前田家の崇敬と庇護(ひご)が厚く、1639年(寛永16)に前田利常が社殿を造営した。旧県社。例祭5月15日には神事能を奉納する。本殿3棟は県の文化財。

[菟田俊彦]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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