太地村(読み)たいじむら

日本歴史地名大系 「太地村」の解説

太地村
たいじむら

[現在地名]太地町太地

熊野灘に半島状に突出した地にある。入組んだ海岸線は鯨漁の基地としての太地湾を形成する。北は森浦もりうら湾を挟んで勝浦かつうら(現那智勝浦町)、西はもりうら村、南西は下里しもさと村の小名天満てんま(現那智勝浦町)に接する。村内東北端には灯明とうみよう崎、東南端に梶取かんどり崎があり、熊野灘を航行する船の目印となっている。森浦湾を挟んで北西に小名夏山なつさ(飛地)がある。「続風土記」は「太地或は泰地と書す、名義詳ならす、疑らくは泰地氏此に住してより村名起りしならん、此地旧は僅に漁夫のみにて家居も少かりしに和田氏鯨を取る事を始め大に富饒となり、其家数家に分れ漁戸歳々に殖て今日の形をなし諸方輻輳とはなれり」と記す。

室町時代末期から江戸時代初頭頃の成立と推定される和田系図(「熊野太地浦捕鯨史」所収)によれば、和田義秀(朝比奈三郎)が建暦三年(一二一三)五月和田合戦の後、安房国から当地へと漂泊、道通と名乗り当地に定住したのが太地の和田氏の初めという。また、紀伊熊野源家泰地系図(同書所収)によれば、佐々木源氏の後裔頼貞が、南北朝時代初頭に当地に住するようになったようで、「紀伊熊野泰地ニ住ス、居城頼子城従是家ヲ号泰地」と記す。この頼貞が、中世、当地に勢力をもった泰地氏の初めという。この和田氏・泰地氏の定着に関しては伝承の域を出ない面も多いが、南北朝時代には両者は太地を根拠地とする漁労、またその生活を基とする水軍の統轄者であったことは間違いないようである。

暦応三年(一三四〇)三月一四日付の足利尊氏御教書写(米良文書)によれば、幕府は泰地・塩崎の両氏に、周防竈門かまど関から摂津尼ヶ崎に至る間の西国運送船や廻船の警固に当たらせ、兵粮料足として櫓別銭一〇〇文ずつを兵庫で徴収することを許可している。同年七月一〇日には泰地一族に対し、紀伊国山田やまだ庄が兵粮料所として宛行われている(「小俣律師覚助軍忠催促状写」同文書)。また和田氏は、南朝方の動員に応じて脇屋義助の麾下に入り、湯浅入道・山本判官らとともに兵船三〇〇余艘で出動、備前小豆島に渡り、軍功をたてている(和田系図)。このように太地には泰地・和田両勢力が存在したが、両者間での争いはなかったという。応永三四年(一四二七)二月二四日付の旦那願文案(米良文書)に「那智山御師泰地禰宜殿」とみえ、当地に那智山の御師のいたことがわかる。

慶長検地高目録には「泰地村」とあり、村高一五八石余、小物成九斗八升二合。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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