日本歴史地名大系 「太地村」の解説
太地村
たいじむら
熊野灘に半島状に突出した地にある。入組んだ海岸線は鯨漁の基地としての太地湾を形成する。北は
室町時代末期から江戸時代初頭頃の成立と推定される和田系図(「熊野太地浦捕鯨史」所収)によれば、和田義秀(朝比奈三郎)が建暦三年(一二一三)五月和田合戦の後、安房国から当地へと漂泊、道通と名乗り当地に定住したのが太地の和田氏の初めという。また、紀伊熊野源家泰地系図(同書所収)によれば、佐々木源氏の後裔頼貞が、南北朝時代初頭に当地に住するようになったようで、「紀伊熊野泰地ニ住ス、居城頼子城従是家ヲ号泰地」と記す。この頼貞が、中世、当地に勢力をもった泰地氏の初めという。この和田氏・泰地氏の定着に関しては伝承の域を出ない面も多いが、南北朝時代には両者は太地を根拠地とする漁労、またその生活を基とする水軍の統轄者であったことは間違いないようである。
暦応三年(一三四〇)三月一四日付の足利尊氏御教書写(米良文書)によれば、幕府は泰地・塩崎の両氏に、周防
慶長検地高目録には「泰地村」とあり、村高一五八石余、小物成九斗八升二合。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報