奈古神社(読み)なごじんじや

日本歴史地名大系 「奈古神社」の解説

奈古神社
なごじんじや

[現在地名]宮崎市南方町

御供田ごくでんにある。祭神は瓊瓊杵命・鵜草葺不合命・神日本磐余彦命(神武天皇)。旧村社。宮崎神宮などとともに古来より領主尊崇の社として名高い。古くは権現を称していたが、のちに天皇を宇佐八幡、神武天皇を権現と称するのはどうかとの奏聞があり、八幡の勅号を賜ったと伝え、奈古八幡宮と称された(「日向地誌」など)。おそらく豊前宇佐宮領宮崎庄あるいはその前身の成立とともに鎮守として勧請されたのであろう。

宝治元年(一二四七)一一月日の宮崎庄地頭・政所某補任状写(奈古神社文書、以下同文書は省略)によると、海清久が奈古社大宮司に補任されている。弘長元年(一二六一)一二月一五日、大宮司職は清久から海清景に相伝され(海清久譲状写など)、以後海氏が当社の大宮司職を世襲しており、関東御領宮崎庄の鎮守となっていた。当時の社領は疑問な点もあるが、弘長元年二月日の奈古神社領注文写に計二四町余の田が記され、宮崎庄南方みなみかたの奈古社大宮司の社田と合祀された一八社の祭田からなっている。同年地頭側は清景の屋敷と仁王田五段を安堵し、さらに公文とみられる吉清作の櫛曳田六段と新開一段を停止し清景に安堵している(同年二月日地頭僧某下文写・同年三月二〇日地頭僧某下文写)。一方、清久夫人とみられる大宮司後家比丘尼に対しては、文永二年(一二六五)三月笠本かさもと里内の牟多田三段を安堵している(地頭・公文連署下文写)。この間、清景への大宮司職相伝に関して相論があったとみられ、同三年七月三日鎌倉御家人八田時家とみられる人物の意図を受けて安堵され(里長奉書写)、さらに同六年七月二八日の右衛門尉為親奉書(写)、建治二年(一二七六)閏三月一日の某書下(写)によって宮崎庄南方・北方地頭代に伝達され安堵された。

清景の死去後、子息三郎重清と重清の継母清景後家氏女との間で笠本村の当社大宮司職とその社田をめぐり相論となった。地頭所の裁許状とみられる弘安五年(一二八二)三月二五日の某裁許状写によると、重清は清景の病中に譲状に清景の花押を使って自身の領有を主張したが、「地頭御方」の年貢などは惣領がまとめて負担することとし、後家の一期分と、その後に後家の子で重清舎弟の竹王丸(頼清)が継承することが認可されている。また同年四月一二日には清景跡の田地四町八段は三分二が重清分、三分一を後家が相伝することとなったが、後家提出の文書には五町六段三〇とあるうえ後家分の田地が下田ばかりとの注進もあり、別当寺僧とみられる笠本法橋を仲介役にして新たに先の配分率に従って分配した(僧明生奉書写)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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