日本大百科全書(ニッポニカ) 「惟肖得巌」の意味・わかりやすい解説
惟肖得巌
いしょうとくがん
(1360―1437)
室町中期の臨済宗の僧で、五山文学の詩文に優れる。蕉雪(しょうせつ)と号す。備後(びんご)(広島県)の人。南禅寺少林院で草堂得芳(そうどうとくほう)に参じて法を嗣(つ)ぎ、ついで蔵海性珍(ぞうかいせいちん)(1335―1409)、夢巌祖応(むがんそおう)、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)、子晋明魏(ししんみょうぎ)(花山院長親(かざんいんながちか))に歴参した。とくに中津からは四六文(しろくぶん)の作法を学び、明魏からは『荘子』の講を聞いた。京都の万寿寺、天竜寺、南禅寺に住し、また足利義持(あしかがよしもち)に迎えられて相国寺薀真軒(しょうこくじうんしんけん)において子弟の文学的教育にあたった。つねに東坡(とうば)(蘇軾(そしょく))の詩と『荘子』を講じ、名文家として知られた。晩年は南禅寺雙桂軒(そうけいけん)に退隠、永享(えいきょう)9年4月20日没。著書に語録詩文集『東海華集(とうかいけいかしゅう)』などがある。
[藤岡大拙 2017年5月19日]