宇島町
うのしままち
赤熊村の北部に形成された在郷町。北は周防灘に面する。赤熊村のうち鵜の群集する「鵜島」の洲地に、文政四年(一八二一)から小倉藩が着工した宇島湊を中心とした湊町として形成された。江戸時代末まで同藩領。中津城下の西隣に位置する山国川河口の小祝村(現吉富町・大分県中津市)小祝浦は良好な漁場をもち、江戸時代中期以降には中津城下の泊浦として発展したが、中津藩領ではなく小倉藩領の飛地であった。中津・小倉の両藩主が細川氏、ついで小笠原氏一門であった間は漁民と城下町人との相論対立もさほどの問題にならなかったが、享保二年(一七一七)中津藩主が奥平氏に交替すると、小祝浦漁民と貿易港としての利権獲得をねらう中津城下町民との間にたびたび相論が起き、深刻な摩擦に発展した。このため中津藩は文政三年に城下商人保護を名目として、小倉藩主小笠原忠固に小祝浦と中津藩領地の交換を申入れた。小倉藩は替地交換には応じない代りに家臣杉生十右衛門(上毛郡代)の献策を入れ、小祝浦に代わる新港を築き漁民を移すことにした。小倉藩は幕府に八屋浦と沓川浦の間の海岸、赤熊村と沓川村の浜手に築港を請願し、翌四年に許可されて着工した。当初の工費は九七二貫目余、うち領民から五ヵ年賦で一五九貫目、富商が一〇三貫余、上毛郡蔵から七一〇貫余を出費した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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