小祝村(読み)こいわいむら

日本歴史地名大系 「小祝村」の解説

小祝村
こいわいむら

[現在地名]吉富町小祝・小犬丸こいぬまる、大分県中津市小祝

小犬丸村の北に位置し、周防灘に臨む。小祝浦・小祝島ともいわれた。江戸時代の初めは広津ひろつ村の空地で、同じく同村内から分村する小犬丸村と陸続きで、東の高瀬たかせ川を挟んで対岸は中津城下(正保国絵図など)。寛文九年(一六六九)の大洪水の際、現在の山国やまくに川に近い流路が新たに形成され(吉富町史)、当村は小犬丸村から切離されて東岸に三角洲の小祝島(小祝浦)と西岸の高浜たかはまに二分された(元禄国絵図など)。慶応三年(一八六七)頃の絵図(大分県日田市広瀬資料館蔵)では小祝浦は中津城下に沿った「本川」と、小犬丸村との間を流れる「裏川」に挟まれた島として描かれている。その西には同じく島として高浜が描かれ、遠見番所(高浜遠見番所)古表こひよう八幡(現在の八幡古表神社)が記されている。中世から近世初期までは小今井こいまいと称されていた。八幡宇佐宮放生会縁起(北和介文書/大分県史料二)によれば、八月一五日に「浮殿御前漕参奏舞楽」を行う傀儡子船二艘のうち一艘は「上毛郡小今井」の負担で、小今井は当村の前身とみられる。永禄一二年(一五六九)閏五月二一日に上毛こうげ郡内で合戦放火があり、二二日には中津河(現在の山国川)に毛利勢の警固舟が約一〇〇艘着岸し、上毛・下毛しもげ両郡沿岸の「くつ河・小今井・中津河」などが焼払われた(年月日未詳「某覚書案」到津文書/大分県史料二四)

江戸初期から小倉藩領であるが、元和八年人畜改帳には村名がみえない。


小祝村
こいわいむら

[現在地名]大宮町小祝

久慈川の西方に位置し、東は上大賀かみおおが村・久慈岡くじおか村。康安二年(一三六二)正月七日の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に「寿聖寺領 一、久慈西小岩井村」とあり、寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳に「小祝村」とみえる。「水府志料」によると戸数およそ三〇。天保一三年(一八四二)に西隣の富谷とみや村を編入した。

そのとき小祝村の天神社と富谷村熊野権現が合祀され、鹿島神社が創建された。寛文三年(一六六三)の鎮守開基帳(彰考館蔵)には鹿島明神社とみえ、神体は幣とあり、祭は横瀬よこせ村禰宜豊田若狭今芸が務めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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