日本大百科全書(ニッポニカ) 「寺内正毅内閣」の意味・わかりやすい解説
寺内正毅内閣
てらうちまさたけないかく
(1916.10.9~1918.9.29 大正5~7)
第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣総辞職のあと、元老山県有朋(やまがたありとも)の後援を得て朝鮮総督の任にあった寺内正毅を首班として組織された超然内閣。不偏不党、挙国一致体制を目ざす。1917年1月衆議院を解散し、政友会、国民党を与党化するために援助を与え、憲政会の絶対多数を打破することに成功。同年6月には第一次世界大戦後の国際情勢に備えて臨時外交調査委員会を設置し、委員に原敬(はらたかし)、犬養毅(いぬかいつよし)の両党首を抱き込み、外交政策の挙国一致体制をつくりだした。対華政策では段祺瑞(だんきずい)軍閥政府を支持し(援段政策)、これに2億4000万円に上る借款を貸与し(西原借款など)、南方革命政権の圧殺を図った。1917年ロシア革命が起こるとシベリア地方への侵略をもくろんで翌年日華共同防敵軍事協定を結び、さらに革命干渉のためシベリア出兵を断行した。国内政策では、名目のないシベリア出兵や物価騰貴で社会問題が深刻化し、労働運動や民本主義的潮流が起こると、これに対して強圧的な姿勢で臨み、臨時教育会議を設置して、国民教化の体系化を図った。また軍備拡張政策を進めるとともに、独占資本擁護の重化学工業拡張政策をとった。1918年7月から9月にかけての全国的規模での米騒動では軍隊を出動させて鎮圧に努めたが、同年9月その責任をとって総辞職し、本格的政党内閣である原敬内閣にその席を譲り渡した。
[由井正臣]
『黒田甲子郎編『元帥寺内伯爵伝』(1920・同伝記編纂所)』▽『信夫清三郎著『大正政治史』(1954・河出書房)』▽『岡義武著『転換期の大正』(1969・東京大学出版会)』▽『松尾尊允著『民本主義の潮流』(1970・文英堂)』