1920年7月に中国で起こった安徽(あんき)派(段祺瑞(だんきずい))と直隷(ちょくれい)派(曹錕(そうこん)、呉佩孚(ごはいふ))との北洋軍閥間の戦争。中国では直皖(ちょくかん)戦争という。1916年の袁世凱(えんせいがい)の死後、頭目を失った北洋軍閥は、いくつかの勢力に分裂したが、イギリス、アメリカに支えられた直隷派と、日本に支えられた安徽派(皖系ともいう)が二大勢力であった。安徽派は1919年の五・四(ごし)運動で大打撃を受け、一方、直隷派は、民党、西南軍閥との和平解決を主張する馮国璋(ふうこくしょう)を失ってから、実権が曹錕、呉佩孚に移り、華中、華南地方に勢力を伸ばし、さらに奉天派(張作霖(ちょうさくりん))と結んだ。安直両派の対立は、1920年5月呉佩孚の北上によって激化し、7月14日には両派軍隊の衝突となったが、4日間で直隷派が勝利し、その全盛時代を迎えた。以後直隷派は従来の対南方和平主義を捨てて武力統一政策をとったため、これに対抗して南方派の第一次北伐、ついで奉直戦争が起こった。
[加藤祐三]
直皖(ちょっかん)戦争ともいう。1920年,中国,北洋軍閥内の安徽(あんき)派(親日,段祺瑞(だんきずい))と直隷派(親米英,曹錕(そうこん),呉佩孚(ごはいふ))との戦争。17年安直の対立が始まり,19年から直隷派は奉天派と結び,安徽派の徐樹錚(じょじゅそう)を当面の敵とした。20年5月,呉佩孚が湖南から北上を開始したので,安徽派も外モンゴルから徐樹錚を召還し,これに備えた。7月,北京付近で交戦となるが,4日間で直隷派が勝った。地方軍閥はおおむね静観していた。逮捕命令の出た徐樹錚ら9名は,日本公使館に避難し,安徽派の日本式装備部隊・辺防軍は改編された。以後北京の日本勢力は後退した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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… この状況に直面して段祺瑞は北洋派をあげての武力統一を図ったが,その結果,同派の内部矛盾が急激に顕在化し,段祺瑞の安徽派,馮国璋(ふうこくしよう)の直隷派,張作霖の奉天派等々が入り乱れて中央政権の争奪戦を演じ合うことになる。段祺瑞のひきいる安徽派は20年7月の安直戦争に敗れて政権を失い,直隷派とその同盟軍奉天派が政権の座についた。ついで22年4月,直・奉両派が争って直隷派が勝利したが(第1次奉直戦争),やがて24年9月,奉天派がふたたび戦争をしかけて直隷派の支配をくつがえした(第2次奉直戦争)。…
※「安直戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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