安達憲忠(読み)アダチ ケンチュウ

20世紀日本人名事典 「安達憲忠」の解説

安達 憲忠
アダチ ケンチュウ

明治・大正期の社会事業家 東京市養育院幹事。



生年
安政4年8月4日(1857年)

没年
昭和5(1930)年12月2日

出生地
備前国(岡山県)

別名
幼名=林吉

学歴〔年〕
池田学校卒

経歴
一時僧籍に入ったが、池田学校卒後「山陽新聞記者となった。25歳で自由党に入り民権運動に参加。明治20年東京府属となり、24年渋沢栄一の推薦で東京市養育院幹事に就任、福島新聞記者時代に知った瓜生岩を幼童世話係長に招いた。同院改革を手がけ、里親制度開拓、感化部を設け、38年井之頭学校として分離、結核患者を板橋分院に分離。また杉山鍼按学校を設立、本願寺無料宿泊所を援助するなど、社会事業の実践に大きな足跡を残した。大正8年辞職、のち自由労働者宿泊所を設立した。著書に「貧か富か」「窮児悪化の状態」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「安達憲忠」の意味・わかりやすい解説

安達憲忠 (あだちけんちゅう)
生没年:1857-1930(安政4-昭和5)

明治・大正期の社会事業家。岡山の人。幼くして母と死別遠戚の天台宗寺院で育ち,仏教を修める一方,藩校で経学を学ぶ。新聞記者として自由民権運動にたずさわり,岡山自由党の四天王の一人と称され,集会条例違反で入獄したこともある。その後上京し,1888年東京府に奉職,92年養育院幹事となる。1919年退職するまで,渋沢栄一養育院院長の補佐役として,井之頭学校,安房分院,巣鴨分院,板橋分院の創設等にかかわり,養育院の発展に尽力した。また感化救済事業を生む母胎となった〈貧民研究会〉を組織したり,無料宿泊所や職業紹介所等の防貧施設の創設にもたずさわり,社会事業の普及発展に寄与した。著書に《窮児悪化の状況》(1898),《貧か富か》(1922)などがある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安達憲忠」の解説

安達憲忠 あだち-けんちゅう

1857-1930 明治-大正時代の社会事業家。
安政4年8月3日生まれ。岡山の遺芳館にまなび,新聞記者として自由民権運動に参加。明治24年東京市養育院院長渋沢栄一のすすめで同院幹事となる。里親制度の開拓や伝染病の隔離療養など同院の改革のほか,無料宿泊所の創設などにつくした。昭和5年12月2日死去。74歳。備前(岡山県)出身。著作に「窮児悪化の状況」「貧か富か」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「安達憲忠」の解説

安達 憲忠 (あだち けんちゅう)

生年月日:1857年8月4日
明治時代;大正時代の社会事業家。東京市養育院幹事
1930年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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