日本大百科全書(ニッポニカ) 「実存主義文学」の意味・わかりやすい解説
実存主義文学
じつぞんしゅぎぶんがく
文学的に明確な主義、形式、流派を指摘しうるものではないが、実存意識つまり存在の不条理性に対する意識(存在に対する不安)を出発点とする文学。つまり、自己の本質をつくりあげるために人生を選択し、責任ある行動をとり、「状況(シチュアシオン)」situationのなかで、歴史や社会に「参加(アンガージュマン)」engagementしながら、その状況を受け止め乗り越えて、真の自由を獲得しようとする人間を描こうとする文学と解せられる。
実存意識を底流とする文学はすでに古くからあったが(ボードレール、モーパッサン、ドストエフスキー、カフカなどの作品)、人間の一つの新しい生き方として実存の問題を提起したのは、第二次世界大戦後のサルトル、カミュ、ボーボアールらの文学である。
このような文学が生まれる契機になったのは、20世紀前半のたび重なる戦争や動乱であった。とくに第二次世界大戦によって、人間は、自己の個性や本質やそれらが形づくる自由が、歴史や社会や現実の前でいかに無力であるかを知った。そこで、神が本質をつくるという従来の考え方を拒否し、本質に先行するところの「存在」、つまり「即自」en soi(単に存在すること)から「対自」pour soi(存在することについての意識)へと移行する「存在」を中心命題とする無神論的実存主義が脚光を浴びるようになった。
[榊原晃三]
サルトルにおける実存主義文学
サルトルは最初、芸術によって存在を完璧(かんぺき)なものにしようと考えたが、やがて戦争体験を経ることにより、真の自由の獲得と、したがって真の存在の完成とは、歴史や社会や現実に参加することによって獲得しなければならぬと考えるに至った。こうして長編小説『嘔吐(おうと)』(1938)は、実存意識に目覚めた人間が小説を書くこと(芸術)で生の意味を発見しようとする姿を描き、短編小説『壁』(1937)では、人生を選択できず、ただ存在するだけのものとして存在する人間を示し、劇作『蠅(はえ)』(1943)では、自己の状況を乗り越える行動によって自己を判定する人間を浮き彫りにした。さらに4部からなる連作長編小説『自由への道』(1945~49、第4部『最後の機会』は未完)では、第二次世界大戦の前中後の時代を生きる一知識人が、こうした実存的人間の発展をたどりつつ、ついに新たな真の自由と新たな自己を発見する過程を描いた。
さらに、実存主義文学が社会への参加の文学である以上、文学者は書斎での孤独な創作活動だけにとどまることをやめて、積極的に社会や政治の問題に発言し、それに対して熱烈に働きかけることになる。こうしてサルトルは、さまざまな社会、政治、時事問題――ハンガリー事件、アルジェリア問題など――に正面からかかわり合っていった。そうした参加からまた、政治における目的と手段を描く劇作『悪魔と神』(1951)などの作品を生み出した。以上のような意味合いからサルトルの文学および実存主義文学は、新しい意味でのヒューマニズムの文学といわれている。
[榊原晃三]
アルベール・カミュ
カミュの場合、サルトルの『嘔吐』と同じような位置を占める作品が『異邦人』(1942)である。その主人公は「不条理」absurdeの意識をもつがゆえに、日常性と良識を代表する社会によって殺人罪で裁かれるが、実は裁く側も自己欺瞞(ぎまん)の罪によって告発されているのと同然である。カミュはこの、人間に虚偽や欺瞞を強い、人間の真の存在を否定する不条理との戦いこそ人間の義務であるとする。そしてこの義務はこうした不条理な人生への抗議、反抗の形をとって、エッセー『シシフォスの神話』(1942)では、永遠に崖(がけ)の上に岩を押し上げねばならぬ絶望的な反抗行為となり、そこに人間のあるべき姿をみようとする。
こうして、カミュにおいては、反抗が不条理意識をもつ人間の参加行為となり、これを具現するのが長編小説『ペスト』(1947)の主人公で、彼はペストのために恐慌をきたした町で、神や悪魔の無力を知って孤独地獄に陥る人々に囲まれながら、因襲や安易な妥協に甘んじることなく、人間の連帯を頼みにして己の職務を遂行する。こうした意味で、不条理に反抗し続けて人間性を追求する道がまたヒューマニズムに通じている。そして不条理的人間による人間性の誠実な探求の道が、このような反抗と行動の形をとるがゆえに、不条理の文学も必然的に社会への参加を行うものとなる。
[榊原晃三]
シモーヌ・ド・ボーボアール
ボーボアールは学生時代にサルトルと巡り会い、2人の結合は激烈な反順応主義と、出生の環境(ブルジョアジー)に対する反抗によって強固にされたが、この二つの命題が彼女の文学的出発点となり、そこにはすでにこの実存主義文学の女王の生涯のテーマがかいまみえる。すなわち、ボーボアールの文学活動は、女性であることの「本質」と女性になることの「実存」の矛盾相克の苦悩を核として展開されるといえよう。長編小説『招かれた女』(1943)は嫉妬(しっと)という永遠のテーマを一新するもので、主人公フランソアーズは自分と夫との間に介入してくる「他者」の存在である招かれた女グザビエールを殺す。他者の幸福に対する指向と他者の存在とはつねに自我の破壊であるという認識である。長編小説『他人の血』(1944)では、レジスタンスにおける連帯と責任の問題を扱い、長編小説『人はすべて死す』(1947)では、真の個人と歴史との相克を描く。膨大な社会学的、心理学的、文学的女性論である『第二の性』(1949)は、「女性は雌と去勢者の中間的存在として社会的心理的につくりあげられるもの」であり、女性が他者によって自己を規定されるのは人間として堕落であるとの観点から、女性の復権を求める。さらに4部からなる回想録『娘時代』(1985)、『女ざかり』(1960)、『或る戦後』(1964)、『決算のとき』(1972)と『おだやかな死』(1964)は、ボーボアール自身の「女性になることへの実存」に至る過程を精神形成と重ね合わせて語る、同時代のドキュメント豊かな作品である。
[榊原晃三]
他の作家たちとその影響
このほか、ジャン・ジュネは、サルトルから「聖ジュネ」とよばれ、「参加の文学者」として世に出たが、『泥棒日記』(1949)、『花のノートル・ダム』(1944)など超現実主義(シュルレアリスム)風の手法による長編小説で、男色者、職業的犯罪者としての自己の屈辱と反抗の半生を自己欺瞞に陥ることなく描いた。サルトルの友人で、第二次世界大戦中戦死したポール・ニザンは、自己の階級への反抗、社会の偽善の告発を文学の形で行った。ボーボアールに認められた特異な女流作家ビオレット・ルデュックViolette Leduc(1907―72)の自伝小説『私生児』(1964)は、同性愛者としての自己をあらゆる観点から汚れた醜い存在だとし、その呪縛(じゅばく)から逃れられず、しかも自ら周囲に張り巡らした孤独の環(わ)を打ち破ろうとする物語である。「他者」の焚火(たきび)で暖まりたいと願う女性の個性的な意識と呟(つぶや)きが語られ、つねにアウトサイダーである存在が真の自由を発見しようとする、回帰転生の物語としてとらえることができる。
なお、サルトルらの実存主義文学は、文学的意識、文学の方法、文学者および文学作品の社会参加などの点で、以後の文学に多大かつ多様な影響を及ぼしたが、とくに、意識を「事物」のほうへと疎外しながら人間の条件と形成を考えるという点で、M・ブランショ、ロブ・グリエ、M・ビュトール、N・サロート、C・シモン、M・デュラスらのヌーボー・ロマンの文学に根本的な影響を与えた。文学を現象学的領域のものと考え、小説は「作中人物をつくりださず、作中人物を物語りもしない」(ロブ・グリエ)ものであり、文学は「現実がいかにしてわれわれに現れうるかを示す実験室」(ビュトール)とする考え方は、すでにサルトルらの文学にその萌芽(ほうが)をみることができよう。
[榊原晃三]
日本
日本では、椎名麟三(しいなりんぞう)が、人生に対する絶望と死の恐怖とを契機とする実存意識による中編小説『深夜の酒宴』『重き流れの中に』(ともに1947)などを書き、同じく『永遠なる序章』(1948)、『赤い孤独者』(1951)などで自由が死からの解放であるという考えに基づいて、自由の問題を問いかけた。その実存意識は、戦後の虚脱状態にあった日本人の精神状況を象徴化しているともいえよう。ただ、この作家の場合、死の恐怖から自由に至る内的過程でキリスト教への信仰告白が介在している点において、いわゆる無神論的実存主義文学とは異なっている。
[榊原晃三]
『サルトル著、伊吹武彦訳『実存主義とは何か』(1955・人文書院)』▽『サルトル著、加藤周一・白井健三郎他訳『シチュアシオンⅡ 文学とは何か』(1964・人文書院)』▽『佐藤朔著『現代フランス文学の展望』(1976・カルチャー出版社)』▽『白井浩司著『サルトル入門』(講談社現代新書)』▽『ロブ・グリエ著、平岡篤頼訳『新しい小説のために』(1967・新潮社)』