フランスの作家。長編小説、戯曲、詩集、時事評論文も残したが、主として短編小説家として知られている。8月5日、フランス北西部ノルマンディー地方の海岸部で生まれたが、詳しい出生地については諸説がある。父ギュスターブは株の仲買人、母ロールは文学的教養もあり、フロベールの親友アルフレッド・ル・ポアトバンAlfred le Poittevinの妹だった。のちにそれが機縁となって、フロベールとモーパッサンの師弟・友情関係が生まれる。家庭をほとんど顧みない父と、子供たち(モーパッサンには5歳違いの弟エルベがいた)を偏愛するやや神経質な母のもとで、モーパッサンは漁民、農民の子供たちと自由に山野を駆け巡ったり、遠泳に出たりして幼少年時代を送ったといわれる。
1870年、プロイセン・フランス戦争が始まると、当時パリ大学法学部に在籍中だったモーパッサンも出征、プロシア軍が侵入してきたノルマンディー地方で、戦争を体験した。71年除隊、翌年パリに出て、海軍省に就職。昼間は役所勤め、夜と休日は、ひとりで、あるいは友人たちと、大好きなボート遊びに興じた。やがて詩作、小説の創作を試み、母を通じてフロベールの指導を仰ぐことになる。78年、同じくフロベールの世話で文部省に移り、勤務はやや楽になったが、その後の80年までのほぼ10年間、彼は大部分の時間を役所勤めにとられながら、ボート遊びと文学修業に文字どおり骨身を削る。一方、75年ごろから、フロベールを通して、当時の著名作家ゴンクールやゾラ、またその周辺に集まっていた作家志望の青年たちともしだいに交際するようになっていった。80年に発表された『メダンの夕べ』は、ゾラの名前を踏み台に、挑戦的な作品で世間の注目を集めようとする文学青年たち(ユイスマンス、アンリ・セアールHenri Céard(1851―1924)、ポール・アレクシスら)の試みだったが、この作品集にモーパッサンが寄せた『脂肪の塊(かたまり)』は、ゾラも含めた他の執筆者の作品に勝るものとして、モーパッサンの文壇への登場のきっかけとなった。これまで彼を温かく、ときに厳しく導いてきたフロベールも、弟子の作品を「後世に残る傑作」と激賞し、同年5月に世を去っている。
それ以後、モーパッサンは、文芸部門にも力を入れていた保守的傾向の日刊紙『ゴーロア』『ジル・ブラス』と契約を結び、役所勤めもやめ、ほぼ週にそれぞれ1作ずつの割合で短編小説、時事評論文を寄稿、また『女の一生』(1883)、『ベラミ』(1885)などの長編小説を連載している。
モーパッサンは、幼少年時代の野外での生活、その後のボート遊びなどから、身体的にきわめて頑健だった印象を与える。しかし一方で彼は、若いころから絶えず恐ろしい病気と闘わねばならなかった。役人時代にフロベールや母に宛(あ)てた手紙にも、すでに目の失調や脱毛を訴えるものがみられ、やがてそれは化学療法、各地の温泉での治療にもかかわらず、全身を冒し、精神に障害をきたしていく。今日ではほぼ確実に、先天性かつ後天性梅毒によるものと考えられている。1892年元日、かみそり自殺を計ったあと、パリにあるブランシュ博士Antoine Emile Blanche(1828―93)の精神科病院に入り、翌93年7月6日、そこで世を去ることになる。42歳の若さであった。
[宮原 信]
モーパッサンのおもな作品には、『女の一生』『ベラミ』のほか、『モントリオール』(1887)、『ピエールとジャン』(1888)、『死の如(ごと)く強し』(1889)、『我らの心』(1890)などの長編、短編約300、時事評論文約150、旅行記3冊、詩集1冊、戯曲3編があり、ゾラ、ゴンクールなどで代表される自然主義文学のなかに系列づけられるが、彼の場合、大きな構想をもった小説世界を設定し、そこに想像上の人物を登場させていくというより、自身が日常体験し、観察したものを、ほとんど直接に読者の前に提出している印象を与える。日刊紙に彼が寄稿した短編小説には、時事評論文とほとんど見分けがつかないものが少なくないのは、そのためである。
またその題材も直接目に触れえた世界に限られ、ノルマンディー地方の農漁民、パリの役人、のちには社交界の男女、戦争の犠牲者、そして病気の進行に伴う不安・恐怖、それからの脱出の試みなどが、一貫して扱われている。むろん、こうした観察結果の直接提示という印象は、精巧な技法に支えられており、モーパッサンを短編技法のあるタイプの完成者と考える人もいる。いずれにせよ、モーパッサンは、19世紀後半のフランス社会の一断面について、その重苦しい雰囲気をよく伝える作品を多く残したといえよう。
日本でもモーパッサンの作品は、1901年(明治34)ごろから英訳を通して翻訳され始め、田山花袋(かたい)、島崎藤村(とうそん)、永井荷風(かふう)ら、自然主義の作家たちに影響を与えた。
[宮原 信]
短編作家の名手モーパッサンには、『メゾン・テリエ』(1881)をはじめ、『フィフィ嬢』『山鴫(やましぎ)』(ともに1883)、『月の光』『ロンドリ姉妹』『イベット』『ミス・ハリエット』(いずれも1884)、『トワーヌ爺(じい)さん』(1886)、『ル・オルラ』(1887)、『ユッソン夫人の善行賞』(1888)、『あだなる美貌(びぼう)』(1890)などの短編集がある。
死後80年たって、本国フランスでもモーパッサンの全短編が『プレイアード叢書(そうしょ)』2巻に収録され、出版された。同叢書の多くがそうであるように、各作品の初出年月日、バリアント(異本)、注が再検証され、多くの注を伴っている。これは、ある意味でモーパッサンの作品の再評価であると同時に、同国人にとってもモーパッサンの記述が、そのままでわかるものではなくなってきたことを意味しよう。それは単に、ノルマンディーの田舎(いなか)で用いられていた農耕具の名称、あるいは地名といった外面的なものに限らず、モーパッサンによって描かれている人物の行動や心理的反応そのものについても、ある程度あてはまるといえよう。事実、夫に暖房器具を買ってもらえないので、わざと雪の中にほとんど裸で長時間とどまり、肺炎にかかることによって、消極的ではあるが夫に反抗する女性(『初雪』)とか、節約のため中風(ちゅうぶ)の夫に卵を抱かせて雛(ひな)をかえさせるノルマンディーの農婦(『トワーヌ爺さん』)といった存在が、そのままの形でどの程度、現代人の目に、ありそうなこと、あるいは、同情や笑いを誘う話として映るかは疑問である。さらに、一般に、冷静、客観的といわれる観察によって、地方の、あるいはパリの人間を、なにかもの珍しい人種でもあるかのように、読者にやや得意気に描いてみせる態度も、才気を感じさせるだけに、なにか古めかしい印象を与えることも少なくないだろう。
それにもかかわらずモーパッサンが、フランスでも外国でも読まれ続けているのはなぜだろう。たとえば、モーパッサンが戦争に題材を仰いだ短編をみよう。ふと平和なときに戻ったような気がして、釣り糸を垂れたがために銃殺されてしまった時計屋、小間物屋の主人たち(『二人の友』)、戦死した息子の復讐(ふくしゅう)のため次々と村を占領している敵兵を殺していく農夫(『ミロン爺さん』)の存在は、けっして現代の世界と無縁ではないだろう。当時の殺戮(さつりく)は、現代のそれと比べて規模の小さいものだったかもしれない。しかし、無力な個人が、個人を超えた途方もない力の前に、無力に踏みにじられていく例は、今も昔も少なくない。そんなとき、あくまで個人の立場から戦争を糾弾するモーパッサンの声は、いまでも感動的である。これは、モーパッサン描く農民、パリ市民が一見平和な生活のなかで遭遇するドラマについてもいえるだろう。彼は『女の一生』に「ささやかな真実」という副題をつけたが、短編の多くについて、いまなお、われわれはその「ささやかな」人物の「ささやかな」悲喜劇を身近なものとして受け取ることができるのである。
[宮原 信]
『新庄嘉章他訳『モーパッサン全集』全3巻(1965~66・春陽堂書店)』▽『青柳瑞穂訳『モーパッサン短篇集』全6冊(新潮文庫)』▽『中村光夫著『フロオベルとモウパッサン』(1948・筑摩書房)』▽『大塚幸男著『流星の人モーパッサン――生涯と芸術』(1974・白水社)』
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フランスの小説家。ノルマンディー地方に生まれる。12歳のころ両親が別居,弟とともに母親に育てられ,イブトのミッション・スクール,ルーアンの高等中学を経て,パリ大学法学部に学籍登録後まもなく普仏戦争勃発,応召した。除隊後,海軍省に就職,のちに文部省に転ずるが,役所勤めのかたわら,フローベールの指導と激励を受けて文学修業に励み,1880年,普仏戦争を背景とした短編小説《脂肪の塊》を発表,一躍〈自然主義〉の新進作家として脚光を浴びた。以後,《女の一生》(1883),《ベラミ》(1885),《ピエールとジャン》(1888)など6編の長編,《メゾン・テリエ》(1881),《月の光》(1884),《ル・オルラ》(1887)などの単行本に収められた多数の短編,詩,戯曲,紀行などを発表,精力的な執筆活動を続けたが,先天的神経疾患と梅毒にしだいに神経を侵され,92年に自殺未遂,翌年,収容先のパリ郊外の精神病院で死去した。巧みな構成とみごとな感覚的描写に支えられた長・短編,とりわけ完成の域に達した形式をもつ短編小説群によって,モーパッサンはフランス本国以上に諸外国で高い評価と多くの読者を得,日本でも,明治30年代以降,最も盛んに翻訳紹介されつづけたフランス作家の一人で,田山花袋,島崎藤村,永井荷風ら,影響を受けたとされる作家は数多い。
執筆者:斎藤 昌三
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…しかし,この小説論は,その極端な立論を通して,少なくとも,素朴な熱情にも似た科学への信仰を共有することによって時代精神に適合した自然主義の一面,この文学思想の根底にある科学主義志向を最も端的に表し伝えている点で,自然主義の代表的文学理論の一つに数えられる。 1870年代の半ばごろからゾラの周辺に集まった自然主義派の若い作家たちは,会合の場所であったゾラの別荘がメダンにあったことから〈メダンのグループ〉と呼ばれるが,これに属するモーパッサン,J.K.ユイスマンス,H.セアール,L.エニック,P.アレクシの5人は,1880年,首領格のゾラとともにおのおの1編ずつの短編を持ち寄って作品集《メダンの夕べ》を公刊し,自然主義文学派の存在を強く印象づけた。これらの作家たちのほかに,自然主義派ないしそれに近い作家としては,日本にも早くから紹介されたA.ドーデ,O.ミルボー,劇作家H.F.ベックらがいる。…
※「モーパッサン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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