宮古町(読み)みやこまち

日本歴史地名大系 「宮古町」の解説

宮古町
みやこまち

閉伊へい川河口の宮古村・黒田くろた村の一部が町場化したもので、もと町・しも町・あら町・よこ町・むかい町・町・藤原ふじわら町からなる。江戸時代初期、閉伊川河口の宮古湊開港、続く宮古通代官所の設置にともなって、北部閉伊地方の行政・産業の中心地となった。宮古―盛岡を結ぶ閉伊街道の起点、および海岸線を南北に走る浜街道の要路で、町の中央御水主おかこ町橋際には基点一里塚が築かれ、横町および向町はずれには伝馬屋敷が軒を並べていた(元禄五年「町屋鋪表口改帳」伊香文書)。閉伊川の河口付近には室町時代末期頃からすでに海産物集散および交易の場として小集落が形成されていたと思われるが、ここに本格的な町割の行われたのは盛岡藩二代藩主南部利直の時である。

宮古町
みやこまち

[現在地名]松山市味酒町みさけまち二―三丁目

松山城下町の西端に位置し、味酒村に通ずる南北の通りとその周辺を含む町。東は紙屋かみや町、西・南・北はすべて味酒村に接する。元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)の「水呑町拾八町」のなかに宮之前町と記されている。宮之前町が宮古町の前身であることは文政一一年(一八二八)の松山城下町図(同会蔵)によって明らかである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報