日本歴史地名大系 「宿浦」の解説 宿浦しゆくうら 福井県:丹生郡越前町宿浦[現在地名]越前町宿北は海(うみ)浦、南は新保(しんぼ)浦で、西に日本海を望み、集落は越前海岸の段丘崖下に列をなす。天正一七年(一五八九)大谷吉継が敦賀に居城し、丹生郡の一部である当浦から南方の米浦(こめのうら)までが、その知行地に含まれた。慶長三年(一五九八)六月一五日付の宿浦惣百姓中宛新藤甚介証状(小塙家文書)に<資料は省略されています>とみえ、海浦・宿浦・新保浦の境が知られる。正保郷帳には「宿之浦」とあり、高四四・五二石すべて畠方。福井藩領で、戸口は慶長三年六五戸、寛文元年(一六六一)一五〇戸、天明二年(一七八二)七七戸、文政五年(一八二二)七九戸・四〇七人(越前町史)。 宿浦しゆくのうら 長崎県:南松浦郡若松町宿之浦村宿浦中世、五島中浦部(なかうらべ)のうちにあった浦。嘉元四年(一三〇六)頃に峰貞と相論になっていた青方覚念(高家)の欠年月日陳状案(青方文書)に「宿浦」とみえ、奈留平四郎が同浦に居住していた。延慶二年(一三〇九)三月日の峰貞申状案(同文書)にも同様のことが記される。応安八年(一三七五)「中浦目内宿浦」の志佐氏知行地で屋敷をめぐる紛争があり、宇久松熊丸(勝)ら三名の仲介で志佐氏と交渉することになっている(同年六月一九日「宇久松熊丸等連署押書状案」同文書)。 宿浦しゆくうら 三重県:度会郡南勢町宿浦[現在地名]南勢町宿浦木谷(きたに)村の西南。南は田曾(たそ)浦、西は標高一八一・九メートルの浅間(あさま)山、東は逢原(あいはら)島を望む五(ご)ヶ所(しよ)湾口の海崖に位置する漁村。「神宮雑例集」に「志摩国宿島出町ノ神田」とある故地。宿浦近辺に神宮の神田が設置されていたことが知られる。船舶の待避所の意味で「やどりしま」と称したらしい。地勢上からみても熊野への海路中、五ヶ所湾の湾口にあって船の待避港として最も近い場所にある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by