若松町(読み)わかまつちよう

日本歴史地名大系 「若松町」の解説

若松町
わかまつちよう

面積:六〇・二二平方キロ

五島列島のほぼ中央部に位置する。町域のうち中通なかどおり島では東は奈良尾ならお町、北東は有川ありかわ町、北は上五島町と接し、若松島(面積三一・五四二平方キロ)の南西にはたきわら瀬戸を挟んで奈留なる町がある。中通島の間の若松瀬戸上中うえなか島・下中島・島やカヅラ島があり、若松島の北西に漁生浦りようせうら(面積〇・六五一平方キロ)ノ島(面積一・六六平方キロ)有福ありふく(面積二・七三四平方キロ)あいノ島など計三一の島嶼があり、うち常住島は六ヵ島にとどまる。若松島はこれらの島々と複雑な入江に恵まれて景観に勝れ、西海国立公園および若松海中公園に指定されている。地勢は狭長で、中通島の山王さんのう(雄岳、四三九・二メートル)(四〇一・五メートル)おうぎ(三二九・六メートル)、若松島の天神てんじん(三〇六・九メートル)などの山嶺が海岸まで迫る。

若松町
わかまつちよう

上京区六軒町通一条上ル

清和せいわ院の東、中央を南北に六軒町ろつけんちよう通が通る。

平安時代、当町辺りは大嘗会の斎場で後に大嘗会畠とよばれる官有地であった。「明徳記」には「佐々木ノ治郎少輔高詮ハ七百余騎ニテ一条ノ大路ヲ前ニ当テ、北野ノ森ヲ背ニシテ、大嘗会畠ニ陣ヲ取ル」とあり、この大嘗会畠の範囲には諸説あるが、当町辺りであった。「坊目誌」は東は千本せんぼん通、西は七本松しちほんまつ通、南は一条通、北は今出川いまでがわ通とする。

若松町
わかまつちよう

[現在地名]高崎市若松町

明治四年(一八七一)赤坂あかさか村に成立した町。江戸時代には城郭の南、下横しもよこ町の南から南西に広がる地域であった。城下南辺の遠堀の橋を渡ると、高崎七口の一つ前栽ぜんざい町口の木戸があった。木戸外は小字を植竹うえたけといい、明治四年鎌倉かまくら町となり、同町分を除く赤坂村分が若松町となった。若松町の西にあたる光明こうみよう寺・龍広りゆうこう(明治に明石町に編入)東側に沿って遠堀があり、からす川へ流れ込む坂は深く、通称そんま堀といわれた。

若松町
わかまつちよう

下京区高倉通五条下ル四丁目

南北に通る高倉通(旧高倉小路)両側町。南側は上珠数屋町かみじゆずやまち通にも面する。

平安京の条坊では左京七条四坊一保一町東南隅、同二町東北隅、同七町西北隅と同八町西南隅にあたり、平安中期以降は左女牛高倉小路の地。町内北西部は六条顕秀邸の地内にあり(柿本影供記)、北東部は棗苑の一角に入る。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「わか松町」と記され、以後変化はない。

宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は、「此町に憶念寺、勝福寺、法順坊といへる寺有、いづれも東門徒なり、此町の南の辻はきこくの馬場なり」と記しているが、「坊目誌」によれば、当町には浄土真宗大谷派の憶念おくねん(寛永七年、明円の開基)勝福しようふく(開基創立不詳)法順ほうじゆん(慶長一〇年、休可の開基)長堅ちようけん(天明二年、得厳の開基)があった。

若松町
わかまつちよう

[現在地名]函館市若松町

明治六年(一八七三)八月に一本木いつぽんぎ町が改称して成立した(同六年「御達書留」市立函館図書館蔵)。同九年の現住戸口は二五〇戸・九一八人(函館支庁管内村町別戸口表)。同三〇年の戸数四〇五・人口一千六二六(伊藤鋳之助文書)。同年地先海面埋立工事に着手し、同三三年に二万七千坪余の土地が造成された。その一部は北海道鉄道株式会社に函館停車場用地として売却され、同三七年に函館駅舎が完成した。同四一年三月には最初の国鉄連絡船比羅夫丸が就航するが、函館入港は東浜桟橋の沖掛りであった。

若松町
わかまつちよう

[現在地名]小樽市若松一―二丁目・住吉町すみよしちよう信香町のぶかちよう

明治初年(同二年八月―同六年の間)より同三二年(一八九九)まで存続した町。明治四年頃まで耕作地であったが、のち戸口が増大し(小樽市史)、同五年の小樽郡一号区内戸籍表に若松町とある。同六年の「後志国地誌提要」に若松町とみえ、戸数三九・人口六七、寄留戸数二(官員一・平民一)、人口一八(官員四・平民一四)。同八年旧会津藩士東善八が私塾を開き、柔剣道とともに教授した(小樽市史)

若松町
わかまつまち

[現在地名]金沢市昌永町しようえいまち京町きようまち

浅野川下川除あさのがわしもかわよけ町の西に続く通りに沿う町。付近一帯は吹屋ふきや裏通うらどおりともよばれていた(「又新斎日録」加賀藩史料)。もと中島なかじま町の一部であったが、文政六年(一八二三)浅野川下川除町の北西端で町立て。

若松町
わかまつちよう

[現在地名]中央区東日本橋ひがしにほんばし一丁目

横山同朋よこやまどうぼう町の南東に接する南北に細長い片側町で、周囲を武家地に囲まれる。元禄七年(一六九四)頃旗本甲斐庄三郎右衛門屋敷跡が御用達町人らに下賜されて町地となり、村松むらまつ町に吸収され、のち若松町として分離、一町となった(沿革図書・「東京府志料」)

若松町
わかまつちよう

中京区先斗町通三条下ル二丁目

かも川の西側に位置し、南北に通る先斗町ぽんとちよう通に西面する。

町名は、筆描図系では寛文末洛中洛外大図に「若松丁」、木版図系では正徳・享保間京大絵図は「シン川原丁」、寛保初京大絵図は「ほんと丁」とするが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」では「若松町」とあり、以後変化はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報