富江陣屋跡(読み)とみえじんやあと

日本歴史地名大系 「富江陣屋跡」の解説

富江陣屋跡
とみえじんやあと

[現在地名]富江町富江郷

江戸時代、福江藩より分知された五島氏の陣屋跡。同氏は旗本で、柳間詰交代寄合高家の万石大名格の扱いであった。その所領は五島富江領とも称された。明暦元年(一六五五)福江藩主の五島盛勝が一一歳で襲封した際、叔父の盛清は後見人として実権を握ったが、分知を幕府に求めて画策、万治三年(一六六〇)三千石の分与が認められ、同四年の知行割では同藩主との間で「毛頭依怙贔屓之心なくして」「心底不残相談之上小身之事ニ候間民部方江用捨ヲ加」えて水主・船、山、浮所務など三千石を割り、富江を居住の地と定めることとして(「起請文前書」五島編年史)、同藩領五六ヵ村のうち二〇ヵ村を分知することとした。しかし寛文元年(一六六一)富江分知領目録によれば、福江ふくえ島の富江村・田尾たお村、樺島かばしま(現福江市)中通なかどおり島の青方あおかた(現上五島町)魚目中うおのめじゆう(現新魚目町)宇久うく島の小浜おばま村・こううら村・飯良いいら(現宇久町)の八ヵ所で、都合三千六六四石余・取箇米七六九石余、浮所務銀一九貫六七三文余。耕地は五島のなかでも優良の平野部で、漁場も魚目中など五島随一のところを得ている。正保国絵図の高では三千石に対して三〇〇石余の不足があるため飯良村から割くことが検討されたが、五島中の内検高三千四〇〇石余のうち五分の一にあたる六八三石余が充てられることになったという。寛文二年の境分けに際して入作などのため小浜村などで村高の調整が行われた。また五島中の地方百姓一千四二四人のうち三〇一人、水主六六四人のうち一七六人、船七二艘のうち一四艘が割かれている(以上「五島編年史」)。正徳二年(一七一二)富江領高辻郷村帳では高四千二〇九石余のうち本高二千六六五石余・内検高一千五四四石余。文化五年(一八〇八)改革令を触れて農業・漁業の興隆に努めたことで内高は八千六〇〇石に上り、七代盛貫のとき一万六千石の実勢規模になったとされる(富江町郷土誌)。慶応四年(一八六八)富江調帳では二〇ヵ所(村号を付さない地を含む)で高一千七二三石余、浮所務銀三貫八二九匁余、家数一千一一三・人数七千二一六、禅宗一六・真言宗七・浄土宗一・法華宗一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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