改訂新版 世界大百科事典 「寛永の飢饉」の意味・わかりやすい解説
寛永の飢饉 (かんえいのききん)
1641-42年(寛永18-19)の凶作による江戸時代最初の大飢饉。1630年代を通じて慢性的な農民の疲弊,それによる農地の荒廃現象がみられたが,37年に起こった島原の乱は,九州を中心とした大量の兵粮と軍役の徴発・動員により,農村の疲弊状況をさらに深刻化させた。40年には,西日本を中心として全国的に牛疫病が流行し,九州では大量の牛死が発生して,農耕に甚大な影響を与えた。翌41年には,西日本では干ばつに見舞われ,さらには虫害の被害をうけ,北陸・関東・東北地方では長雨と冷気による冷害に襲われ,全国的な大凶作となった。その翌年も,西日本では干ばつが続いていたが,秋には一転して各地で大洪水が起こり,東日本では前年同様に長雨と冷害,さらには洪水も発生するなど,2年連続して全国的な大凶作となった。このため,41年の冬から春にかけて,大飢饉の様相が全国的に現れ,農民は耕作を放棄して山野に入り,クズ,ワラビの根を掘って食料とするなどの事態も起こり,さらに,食料と奉公口を求めて大量の農民が各地の城下町,街道筋の宿場町,そして江戸,大坂,京都,伏見などの大都市に流入し,多くは乞食として流浪した。2年続きの凶作により,全国では5万とも10万ともうわさされた多数の飢死者が,都市と農村にでるという惨状を呈した。この飢饉に対して幕府は,大名をはじめとする諸領主に領地に赴いて勧農を命ずるなど,飢饉対策を督励した。42年に幕府は,江戸,上方の諸奉行らを動員して対策の立案を命じ,全国の領主,百姓,町人を問わず飢饉状況の打開策の実施を求めた。米,雑穀類の浪費を防ぐために酒造・麵類の制限,都市から乞食を本国に送還する措置,施粥・米など当面の飢饉対策とともに,用水等の農業生産条件の改善策,さらには農民の生産と生活の細部にわたる規制策,田畑(でんぱた)永代売買禁止令などの一連の措置を通して,この後の幕藩領主の農政の大枠を形成し,近世的農村・農民の成立の一つの画期となった。
執筆者:藤田 覚
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報