寺井村
てらいむら
[現在地名]寺井町寺井
手取川扇状地に位置し、北は東任田村・吉光村・三道山村、東は末信村・和田村・石子村、南は小長野村、西は高堂村(現小松市)など。中世は能美庄重友保(重友村)に属し、寺井市が成立していた。当初、寺井山(標高約二二メートルの独立丘陵)付近に集落があったが、手取川の洪水の被害にあい四散、その後南方丘陵地(現在地)に再び集落を形成したという(寺井野町史)。戦国期に柴田勝家の武将安井左近が居城したと伝える寺井城跡があり、当村集落はその城下町としてまた江戸時代には北陸街道の宿場町として栄えた。宿屋・かごや・米屋・油屋・染物屋などが軒を並べ、寛政期(一七八九―一八〇一)以降とくに賑いをみせたという(寝覚の蛍)。
江戸時代は加賀藩領であったが、寛永一六年(一六三九)より万治二年(一六五九)までは越中富山藩領。正保郷帳によれば高一千九八七石余、田方九六町三反余・畑方二〇町五反余、ほかに新田高五四石余。
寺井村
てらいむら
[現在地名]太田市寺井
鳥山村の西、大間々扇状地の東南端に位置し、西は小金井村(現新田郡新田町)、北は天良村・成塚村。北境を新田堀の末流長堀が西流、東境を田島堀が南流する。中世は新田庄村田郷に属する。観応元年(一三五〇)五月七日、幕府は貞和三年(一三四七)に与えられた新田庄寺井郷の惣領分田在家を鳥山右近将監に押領されたとする岩松頼宥の訴えを認め、これを頼宥に安堵している(「室町幕府下知状写」正木文書)。
寺井村
てらいむら
百相村の西、南に緩やかに高くなる傾斜地に位置する。慶長一七年(一六一二)一二月三日、生駒正俊により寺井の九三石八斗など一五〇石が山崎十大夫に宛行われている(「生駒正俊宛行状」山崎家文書)。寛永国絵図に村名がみえ、行寺・大所などとともに大野郷に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では三七四石余。行寺・大所は当村に含まれる(「東讃郡村免名録」鎌田博物館蔵)。弘化年間(一八四四―四八)には六〇〇石余(村高大小庄屋姓名覚帳)。享保年間(一七一六―三六)一〇〇石が中ノ村大護寺領として寄進された(三代物語)。貞享元年(一六八四)行寺池を築造(大野録)、池泉合符録によると水掛高八五一石余で、当村の一五五石余のほか大護寺領一〇〇石余、一宮一六〇石、三名二八四石余、鹿角一五一石余に分水した。
寺井村
てらいむら
[現在地名]諸富町大字寺井津
南は早津江川を隔て、東は筑後川を挟んで筑後国大野島(現福岡県大川市)と相対する。河港としての寺井津の中心が浮盃津である。
「太宰管内志」は中国の「図書編」第五〇巻「日本国ノ序」に「鉄来」とあるのは「てらい」と読み、寺井津をさすという。また同書は「筑前国志摩郡今津村浜崎ノ寿福禅寺の〔古文書〕に云云竜王埼より舟にのらせ賜ひ寺井ノ津にあがりたまひ、手水をつかはせ給ふため井をほらせ給ふに因て、寺井とまをすなり手洗井の意なり」と金立権現来朝のことを記す。
寺井村
てらいむら
[現在地名]松阪市笹川町 寺井
山村の南、桂瀬村の西にあり、村域内を坂内川が流れ、それに沿って和歌山街道が通る。近世は和歌山藩松坂領。寛永一一年(一六三四)の飯高郡之内新田新畑之帳(徳川林政史蔵)に「寺井村」と記され、天保郷帳では山村に含まれている。
明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数五一、人数二二一。坂内入山札運上として金一分、銀五匁六分があげられている。
寺井村
てらいむら
[現在地名]香川町寺井、高松市寺井町
香東川の扇状地に位置し、南は浅野村と大野村。昭和三一年(一九五六)寺井の一部を一宮村(現高松市)に分離、同三三年さらに一部を高松市に分離した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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