小田川村
こたがわむら
[現在地名]白河市小田川
泉田村の東、泉川上流沿岸の丘陵に位置する。奥州道中の宿駅で、白河宿から約六キロ、東の太田川村(現泉崎村)を経て矢吹宿(現矢吹町)まで約一〇キロ。北と東に水田が広がる。小田河とも記された。文保二年(一三一八)二月一六日の関東下知状(熱海白川文書)に白河庄の内として「小田河」とみえ、前年一一月に富沢郷(現大信村)の居館が炎上し、同郷以下の郷村に関する証拠文書を失った結城盛広が、白川宗広の請文によって富沢郷以下当地などの地頭職を幕府から安堵されている。しかし建武二年(一三三五)には盛広が中先代の乱に呼応して挙兵したとの噂があったため、これらの郷村は宗広に預置かれた(同年八月九日「陸奥国宣」結城神社文書)。「白河古事考」によれば、天正年間(一五七三―九二)白川義親に追われた白河城(小峰城)の幼主義顕が岩久保切岸館に住したという。
小田川村
おだがわむら
[現在地名]矢祭町小田川
東舘村の南、久慈川支流中川流域に開けた小盆地と山地に立地。水戸街道が通る。字大高平に縄文から弥生時代にわたる複合遺跡がある。天文四年(一五三五)一一月二四日の和知直頼添状(八槻文書)に「をた川之内、おつけの草一間三貫文之所」とみえ、地内追ヶ草を、結城白川義綱が八槻(現棚倉町)の近津明神(現都々古別神社)に寄進している。追ヶ草は現在は下関河内の字名として残る。天正年間(一五七三―九二)と推定される一〇月二七日の白川義親書状(奥州文書)によれば、南郷(現東白川郡南部)の小田川にある料所一〇〇貫文の地を約束どおり三森讃岐守に与えるとしている。
小田川村
こたがわむら
[現在地名]韮崎市中田町小田川
中条村の北、塩川右岸の氾濫原に位置し、いわゆる藤井平の北限にあたる。当村北端では須玉川が塩川に合流し、佐久往還が縦断する。枝郷に小田川新田(馬場)がある。慶長六年(一六〇一)の検地帳(県立図書館蔵)には「小田河村」とあり、反別は麦田七町七反余・上田九町四反余・中田四町六反余・下田二町三反余・下々田三町四反余、上畑一町余・中畑六反余・下畑一町余・下々畑七反余、屋敷八反余。慶長古高帳では高五五八石余で屋代越中領。貞享二年(一六八五)の検地帳(県立図書館蔵)では高六三四石余。享保九年(一七二四)甲府藩主柳沢吉里の転封により幕府領(甲府代官支配)、宝暦一二年(一七六二)から寛政七年(一七九五)までは清水家領、同年幕府領に復し(初め市川代官、のち甲府代官支配)、同領で幕末を迎えたと考えられる(寛政八年「竜守道出入裁許証文」宇波円井区有文書、嘉永五年「
沢村口銭出入訴状」上野通芳家文書など)。
小田川村
おだがわむら
[現在地名]金木町喜良市 小田川
小田川中流、金木台地先端上にあり、東は山嶺で内真辺村(現青森市)、西南は嘉勢村、北は喜良市村に接する。
天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「小田川」とある。
正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎郡の新田に高一六・六石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳に田方三九町九反五畝二三歩、畑方一一町九畝一四歩、田畑屋敷合せて五一町五畝七歩、村高四〇二・七五四石、田方は上・中田が七〇・二パーセントを占める。
小田川村
こたがわむら
[現在地名]川場村小田川
中野村の東、雨乞山北西麓の谷間の村。寛文期(一六六一―七三)には中野村に含まれていたと思われる。貞享二年(一六八五)の旧真田領村高書上控に小田川新田とみえ、高九石余。江戸後期の御改革組合村高帳では幕府領。慶応二年(一八六六)の村高家数人数書上帳(関文書)に「家数人別無之、太田川村ニ而兼帯罷在候」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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