小神村(読み)こがみむら

日本歴史地名大系 「小神村」の解説

小神村
こがみむら

[現在地名]川俣町小神

布引ぬのびき山西麓、広瀬ひろせ川支流のふもと川上流に位置し、南は鶴田つるた村・松沢まつさわ村、西は羽田はねだ村。東西に福島に至る街道が通る。村名は小手風土記(川俣町史資料)によれば、鎮守春日神社の神霊が木の上に影向した木上山にちなみ小神としたという。同書には現地名に一致する「八内八門」が載り、中世在家の存在が考えられる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高四三六石余。近世初期の邑鑑によると免五ツ八分、家数五八(役家二二、肝煎・小走四、寺・山伏・神主・行人・脇家三二)、人数一六八、役木として桑・楮・柿がある。米沢藩領時代の古高一千六六六石余、幕府検地による新高九三五石余(古高新高帳)。天和二年(一六八二)幕府領、享保一五年(一七三〇)二本松藩預地になり、寛保二年(一七四二)幕府直轄領に復すが、延享四年(一七四七)磐城平藩領になり、安永七年(一七七八)幕府領、寛政二年(一七九〇)再び磐城平藩領になる。


小神村
おがみむら

[現在地名]龍野市揖西町小神いつさいちようおがみ揖西町芦原台いつさいちようあしはらだい

龍野町・日山ひやま村の西に位置し、揖西郡に属する。集落は山間上楽寺じようらくじと扇状地先端の出屋敷に分れている。南に開ける谷間には古代の揖保郡衙の推定地があり、古代の山陽道が横断していた。文禄四年(一五九五)五月吉日の揖保川井堰絵図(岩見井組文書)に小神村とみえ半田はんだ井の末流に記されている。慶長国絵図にも村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高九六三石余、高七九六石余。


小神村
おこむら

[現在地名]小矢部市小神・今石動町いまいするぎまち二丁目

福町ふくまち村の南、小矢部川右岸平地に立地。西部横江宮よこえみや川が北流、いくり舟とよぶ小舟が往来した。福野ふくの(現福野町)へ至る福野道が通る。当村居住の宮家先祖が礪波となみ山の合戦に敗れ、雄神おがみ(現庄川町)に逃れて帰農したが、庄川氾濫により現在地に移住し当地を雄神と称し、のち小神と改称したという(「宮家由緒書」小矢部市史)。元和五年(一六一九)の家高新帳に「おかう村」とみえ、役家数四、桜町組に属する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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