平安時代の邸宅。平安京の烏丸小路の西,冷泉小路の北にあり,1町の広さをもった。もと文徳天皇皇子の惟喬(これたか)親王の邸があり,彼が小野親王と呼ばれたところから小野宮の名がついた。その後,摂関藤原実頼の領するところとなり,このため実頼の系統を小野宮家と称し,九条家(流)と対比された。実頼からこの家を伝領したのは養子(実は孫)の藤原実資(さねすけ)であった。実資の日記《小右記》に,この邸のことが散見し,いかに造作に意を用いているかがわかる。《大鏡》に手斧の音が絶えないのは東大寺と小野宮とあるのは荒唐無稽な話ではない。邸内には湧泉があるなど趣深い家であった。この邸は実資から娘の千古に伝領され,さらにその娘(小野宮尼公)と女系に伝えられることが多かった。実資は小野宮の周辺の地を買収し,そこに姉や子供たちを住まわせている。現在,京都市中京区に跡地があるが,遺構などは確認されていない。
執筆者:朧谷 寿
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平安京の邸宅。大炊(おおい)御門南烏丸(みなみからすま)西(京都市中京(なかぎょう)区)に方1町の地を占める。文徳(もんとく)天皇皇子で小野宮とよばれた惟喬(これたか)親王(844―897)が住んだためこの名がつき、のちに太政(だいじょう)大臣藤原実頼(さねより)(900―970)の第となり、孫で養子の実資(さねすけ)(957―1046)へ伝えられた。実資時代の小野宮は典型的な寝殿造(しんでんづくり)で、寝殿の南に池、東・西・北に対屋(たいのや)があり、池の南東には念誦(ねんず)堂がつくられ名第として有名だった。実資から娘千古へ譲られたのち女系で伝領され、何度か火災にあいながら鎌倉時代まで続いた。実頼が小野宮殿とよばれたため、その子頼忠(よりただ)・実資、孫の公任(きんとう)・資平(すけひら)などの家系は小野宮家(流)と称され、有職故実(ゆうそくこじつ)の家としても名高かったが、実頼の弟師輔(もろすけ)から兼家(かねいえ)、道長(みちなが)と続く九条流が摂関家の嫡流となったため平安中期以後は勢力を失った。
[吉田早苗]
…惟高とも書き,小野宮ともいう。文徳天皇の第1皇子。…
※「小野宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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