プロ野球選手(外野手:右投右打)。12月17日、福岡県生まれ。飯塚商から八幡(やはた)製鉄(現、日本製鉄)に進み、1942年(昭和17)名古屋軍(現、中日ドラゴンズ)に入団したが、1944年から兵役についた。1946年4月に復員し、すぐに中部日本(中日)で球界へ復帰した。1948年急映フライヤーズ(現、北海道日本ハムファイターズ)に移り、新田恭一(にったきょういち)(1898―1986。ゴルフ選手、野球指導者)と出会い、すくい上げるようにしてボールを飛ばすゴルフスイング理論を開発すると、翌1949年は大映スターズで首位打者に輝いた。そして、2リーグ分立で結成されたばかりの松竹ロビンスに移った1950年は、51本塁打、161打点で二冠王。前年に阪神タイガースの藤村富美男(ふみお)が樹立した本塁打記録を5本も上回ったばかりか、打点は2023年(令和5)時点でも破られていないシーズン最多記録である。しかも打率は藤村に次ぐ2位で、盗塁も28個を記録した。この活躍で松竹はリーグ優勝し、最高殊勲選手(現、最優秀選手)に選出された。その風貌(ふうぼう)と快足を生かしたプレースタイルから、アメリカ大リーグのジョー・ディマジオ(ニューヨーク・ヤンキース)になぞらえて、「和製ディマジオ」の異名をとった。1953年広島カープ(現、広島東洋カープ)に移籍、1958年に現役を引退した。
[出村義和 2024年3月19日]
実働15年間の通算成績は、出場試合1655、安打1717、打率2割8分、本塁打230、打点923。獲得したおもなタイトルは、首位打者1回、本塁打王1回、打点王1回、最高殊勲選手(現、最優秀選手)1回、ベストナイン2回。1980年(昭和55)に野球殿堂(野球殿堂博物館)入り。
[編集部 2016年9月16日]
昭和期のプロ野球選手
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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