法哲学者。朝鮮で生まれ,東京で育った。1923年東京帝大法学部,26年京都帝大文学部哲学科を卒業。京城帝大助教授・教授時代に欧米に留学(1928-32),とくにウィーンでH.ケルゼンに,またフライブルクでE.フッサールに師事した。44年東京帝大法学部教授(〈法理学〉,のちに〈法哲学〉講座担任)となり,56年5月ペニシリン・ショックのため急逝。第2次大戦前の著書としては,《国家構造論》(学位論文,1936),《実定法秩序論》(1942)が学界に大きな影響を与えた。なお,在欧中にオーストリアで出版された《Grundlegung der Lehre vom sozialen Verband(社会集団論の基礎)》(1932)も,ドイツ,オーストリアで高く評価された。総じて戦前の著作においては,ドイツ語文化圏の哲学・法思想の影響が強くあらわれている。戦後は,アングロ・サクソン系の経験主義からも多くを吸収し,《自由論》(1952)においてはとくにJ.S.ミルの立場への共感がみられる。《法哲学概論》(改訂版1953)はスタンダード・ワークとして広く読まれた。G.ラートブルフの相対主義法哲学に近い立場をとる民主主義・自由主義者,またマルクス主義法思想(とくにスターリン体制下における)の忌憚ない批判者として知られた。
執筆者:碧海 純一
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昭和期の法哲学者,社会思想家 元・東京大学教授。
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法哲学者。明治32年1月28日釜山(ふざん/プサン)に生まれる。1923年東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、京都帝国大学文学部哲学科に入り、28年に卒業、同年京城(けいじょう)帝国大学助教授、30年教授を経て、44年東京帝大教授となり、法哲学講座を担当した。この間28年から32年にかけて、ドイツ、オーストリアに留学、ケルゼン、E・フッサールに師事した。著書、論文は多数に上り、法の拘束力に関する問題、法と政治の関係についての問題、民主主義に関する問題をはじめとして、法哲学、法思想界に大きく貢献した。また、日本学士院会員、日本学術会議委員、日本ユネスコ国内委員会委員長としても活躍した。56年5月15日ペニシリン・ショックにより東京で急死。主要著書は『法哲学』(1925)、学位論文となった『国家構造論』(1926)、『法の窮極にあるもの』(1947)、『自由論』(1952)、『改訂法哲学概論』(1952)など。なお、尾高尚忠は弟。
[淡路剛久]
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…(1)アレルギー反応(薬剤過敏症) 代表的なものは,ペニシリンなどβラクタム抗生物質で起こるショック(いわゆるペニシリンショック)である。1956年東大教授尾高朝雄が歯の治療の際に用いられたペニシリン注射でショック死し,世の注目をあびた。発生頻度は低いが,重篤な場合には死に至る。…
…尾高・宮沢論争は,その代表的なものである。尾高朝雄は,真の主権者はノモス(法の理念)であって,天皇主権も国民主権もノモスに従って天皇や国民が政治を行うべき責任をもっていることを意味するにすぎないから,天皇主権から国民主権への転換は〈国体〉の変革を意味しないと主張した。これに対して宮沢俊義は,ノモスの主権を認めるとしても,ノモスの具体的な内容を最終的に決定する権能(責任)が天皇にあるとする憲法と国民にあるとする憲法は質的に異なるとして,〈国体〉は変わったと主張した。…
※「尾高朝雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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