狭義には、天皇を君主もしくは政治支配の権威の源泉とする国家制度をさし、広義には、そうした国家制度を支える社会構造と支配イデオロギーを含めて、天皇制の語は使用されている。
[安田 浩]
もともとの天皇制という用語は、明治維新以降の近代国家の君主制機構とそれを正当化するイデオロギーを示す語として生まれた。明治維新によって成立した国家権力は、その政治支配の正統性根拠を、古事記・日本書紀の神話に由来する「万世一系」の天皇の統治に求め、それが日本の「国体」、すなわち変わらない国柄であるとした。そして天皇に統治権のすべてが帰属する政治体制をとりつつ、その下で文武の官僚機構が強大な力を発揮する専制的体制を採用した。この専制的体制と神話的歴史を動員した支配の正当化のイデオロギーに対する批判として、その君主制機構を天皇制とよび、日本共産党や、『日本資本主義発達史講座』を刊行したマルクス主義の学者によって、絶対主義としての性格をもつとの分析が与えられた。すなわち近代天皇制国家は、ブルジョア的所有と半封建的な地主的所有を維持する社会経済的機能を果たしながら、その政治支配のあり方は西欧市民革命の前段階にあたる絶対主義的・前近代的なものであるとの、批判的認識を示す用語とし天皇制という語は成立した。
しかし、天皇統治に政治支配の正統性をもとめる第二次世界大戦以前の国家体制の下では、君主制に対する批判的・科学的認識は禁圧の対象とされ、天皇制という用語は使用を禁止されていた。そもそも、神武天皇の実在性や記・紀の記述の史実性に対する疑問は、早く明治期から学問的には提示されていた。こうした実証的な歴史研究に対しても、1892年(明治25)の久米邦武(くにたけ)事件、1940年(昭和15)の津田左右吉(そうきち)事件のように、しばしば弾圧が行われ、第二次世界大戦前においては日本の君主制についての科学的研究の自由は成立しなかった。敗戦により近代天皇制国家が崩壊して、日本の君主制や天皇についての研究は、初めて全面的・全時代的に自由に展開されるようになった。そのなかで、天皇制研究と題する論文が次々と発表されて、天皇制という用語は学術用語として一般的なものとなった。
[安田 浩]
前近代史においても、天皇制という用語が適用されて、古代天皇制・中世天皇制についての研究が積み重ねられ、さらに1970年代からは近世の天皇制(朝廷)についての研究も進展した。まず古代史では、第二次世界大戦前の天皇万世一系論への批判として、4世紀初期に成立する大和政権での王朝交替が検討され、大化前代の大王(オオキミ)家がそのまま継続して律令(りつりょう)国家の天皇へと発展したのではないことは、多くの意見の一致するところとなっている。また律令国家として成立する古代天皇制については、そのアジア的専制としての性格と日本的特質の関係がおもに検討されてきた。中世史では、古代専制として成立した天皇制が、なぜ、またどのような形をとりつつ残存し続けたのかの検討が、在地領主――武士階級の形成した武家政権(幕府)と京都の公家政権(朝廷)の問題を中心に研究されてきた。近世史では、戦国大名を克服して実力で権力を獲得した統一政権――織田信長政権・豊臣(とよとみ)秀吉政権や徳川家康の江戸幕府――が、なぜ朝廷を存続させたのか、また幕末に朝廷の権威が浮上するのはなぜなのか、などが検討されてきた。これらを通じて、天皇やそれを支える制度の政治的権能や社会的役割が、時代によって大きく変化していることは明瞭になってきた。こうして1980年代の中ごろからの前近代史研究では、天皇制という用語よりも王権という用語を分析に使うことが多くなってきた。それは、天皇制というまったく同一の制度が継続してきたとの誤解を避けるため、前近代の君主のもつ呪術(じゅじゅつ)性・宗教性を明確にするため、君主を君主たらしめている構造・制度を分析するため、などの理由に基づいており、天皇・天皇制を日本型王権の構成要素として他の君主制との比較においてとらえようとしているからである。
[安田 浩]
近代天皇制の研究は、第二次世界大戦後、まず講座派の絶対主義天皇制論を前提にしつつ、近代国家制度の実証的検討が進められた。他方、丸山真男ら政治学者によって「家族国家観」などのイデオロギー構造の分析が行われ、家や村などの社会的底辺がどのように国家に把握されたのかなど、天皇制の政治的・社会的機能の分析が新たに進められた。こうした分析を前提に、天皇制が民衆の思惟や行動の様式をいかにとらえていったのか、民衆意識に即して把握しようとする研究も進展した。以上のような研究では、近代天皇制の特殊性・後進性を強調する傾向が主流であった。また、全体構造を問題にしていたため、現実の天皇個人の役割・機能の分析は遅れていた。これに対し、1980年代の後半、とりわけ昭和天皇の死去前後から研究に新しい傾向が現れてきた。第一は近代天皇制の、近代化の過程で新たにつくられた要素を強調する傾向である。天皇のイメージや天皇制による文化統合の方式に注目しながら、そこにある「伝統」的要素よりも近代化の装置として作為された点や、西欧近代国家の装置と互換性をもっている点が重視されてきた。第二は、現実の天皇をめぐる政治勢力の相互関係を分析し、天皇個人の政治的機能を具体的に明らかにしようとする傾向である。そこでは、制度の運用といった具体的な次元にまで分析を深化させ、現実の国家意思決定過程のなかでの天皇の位置や機能を把握することで天皇制国家の新しい分析が図られている。
[安田 浩]
天皇という称号の成立は、かつては7世紀前半の推古朝と考えられていたが、現在では天皇号の始用は天武朝末期、制度的には飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)(689)において制定されたとする見解が有力になっている。すなわち、律令国家の君主号として天皇の語は成立したと考えられている。天皇号の成立以前の君主号としては、邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)以降、5世紀の倭(わ)の五王まで、中国王朝から与えられた倭王号が存在し、さらに五王最後の武王(ぶおう)のころには大王(オオキミ)が君主号として用いられた。
[安田 浩]
3世紀前後には原始共同体の分解が進み、その首長層は原始宗教の司祭者としての自己を神に近い超越的存在に高めるとともに、軍事的・政治的統治者として君臨するようになった。こうした原始王権から古代王権への転化のなかで、各地には有力首長を王(キミ)とする政権が形成されていった。このなかで、後の畿内(きない)の地の政権首長が、各地首長政権の連合の盟主として、大王(オオキミ)と称し、大和政権を形成してゆく。7世紀前半までの大和政権の支配は、かつての地方政権の首長であった諸豪族を、国造(くにのみやつこ)制・氏姓制度で編成したものの、その地方支配は屯倉(みやけ)などの直轄地を除き、豪族の従来の人民支配に依存したものであった。ところが6~7世紀には地方豪族の下で小豪族の台頭が始まり、大豪族による従来の部民制支配が困難になって、それを背景に地方豪族の反乱がおこるなど、大和政権の部民制的・氏姓制的豪族支配は行き詰まった。またこの時期、隋(ずい)・唐帝国による中国の統一と外征、朝鮮における新羅(しらぎ)の強大化を契機に、朝鮮半島では戦乱が相次ぐ。この軍事的緊張のもとで大和政権は7世紀に、権力集中と人民支配体制の強化という国家体制の本格的確立を志向し律令を導入していくことになった。
[安田 浩]
8世紀初頭に成立した律令国家では、天皇が外交・軍事大権、授位権、官制大権、官吏に対する任命権、刑罰権を有する中国流の皇帝と位置づけられた。しかし、天皇の地位は皇祖神の意思により確定しており、特定家系が独占世襲するとされたことは、有徳者が天命をうけて君主となるという、中国の天子の観念とはきわめて異なる。また天皇は、皇祖神をはじめ日本固有の天神地祇(てんじんちぎ)をまつる祭祀(さいし)者の地位をもち、その呪術的・祭祀的支配のための組織として、律令は神祇(じんぎ)官を設けていた。他方、俗的君主権力としての天皇の政治組織として、太政官(だいじょうかん)が設置されていた。天皇の統治権行使の実際では、皇太子その他の皇親や太上天皇(だいじょうてんのう)(上皇)、太政官の上層を占める貴族の意思が重きをなしていたので、天皇の個人独裁を常としていたわけではないが、天皇を中核とする支配という点からは、古代天皇制は君主専制と性格づけられる。律令制の変容、藤原氏の朝廷における実権の拡大により、9世紀末から藤原氏出身の摂政・関白が政治の実権を掌握するようになった。しかし摂政・関白の職権は、天皇の君主権を源泉とするものであり、摂関政治の機能する条件は天皇との姻戚(いんせき)関係にあった。
[安田 浩]
10世紀から12世紀の時期、郡司・富豪層による開発私領の拡大が行われるなどして、公地公民制が解体すると、中央・地方の支配層は領域領主としての所領の世襲的支配を図り、荘園公領制とよばれる国家的編成が形成されてくる。政治的には、11世紀末に白河上皇が院政を始めてから統治権はほとんど上皇に移り、院政を行う上皇が「治天の君」とみなされるようになる。こうした変化の基礎には荘園公領制の形成に伴って、皇室・摂関家などが荘園領主となり、私的権門化する事態があった。こうして律令国家は変質し、11世紀末から14世紀にかけての朝廷=公家政権は、上皇の直属機関である院庁が実権を行使する主要機関になっていく。在地領主としての性格をもつ武士団の棟梁(とうりょう)源頼朝(みなもとのよりとも)は、12世紀末に平氏を滅ぼし、日本国総追捕使(ついぶし)・総地頭となることによって全国の軍事警察権を掌握した。頼朝の開いた幕府は、将軍と武士団との間の主従制による権力編成を実現するとともに、天皇統治権の重要な部分を割取したのであって、京都の公家政権と並立する鎌倉の武家政権が成立し、統治権が分割された公武二元体制となった。
[安田 浩]
この状況を打破し、天皇の君主権の完全回復を図る試みが、後醍醐天皇の建武新政であったが、足利尊氏(あしかがたかうじ)の離反によって新政は短期で崩壊する。尊氏が幕府を開くと、後醍醐は吉野に逃れて南朝をたて、「皇統の分裂」=南北朝の内乱が展開した。内乱の終息する14世紀末には、室町幕府の第3代将軍足利義満が太政大臣、さらに法皇の待遇を得て、寺社・公家勢力をもその支配下に置き、明との外交では「日本国王」と名のる国書を送り、実質的に日本の君主であることを国際的にも認知させた。なお朝廷機構は存在したが、義満は武家側から公武の一元化を相当に達成したのである。
在地領主の支配は、鎌倉幕府で組織された地頭職を展開・定着させることで大幅に発展し、重層的な職の体系のなかで一円的領地支配を浸透させていく。こうして荘園公領制は、鎌倉末期から南北朝期の間に変質・解体し、室町期には本来の生命を失った。14~15世紀には農民が惣(そう)結合によって自立化を強め、こうした状況に対応して在地領主も前の時代からの一揆(いっき)的結合を拡大した。地方社会の政治的自立化の進展により、応仁・文明の乱を契機に室町幕府の全国統治は破綻(はたん)し、守護の領国支配も揺らぐ。15世紀後半から16世紀なかばにかけて、在地領主・土豪(地侍)を結集してその百姓支配を保障しつつ、家臣団に編成した戦国大名が成立する。戦国大名は「公儀」とよばれたように、地域的公権力=小国家であった。こうして天皇の統治権はほとんど空に帰し、また祭祀王権としても没落した。戦国期には天皇の即位儀礼の挙行さえままならず、俗的性格をもつ即位礼さえ先帝の死からかなりの年月を経てようやく行われる状態で、祭祀的性格をもつ即位祭(践祚(せんそ)大嘗祭(だいじょうさい)など)は途絶してしまったのである。
[安田 浩]
こうした状態に陥った天皇・朝廷を復活させたのは、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の統一権力であった。統一権力はその実力で統治権を獲得したが、諸大名を服従・編成するため律令的官職階層制を利用した。このことは天皇・朝廷の官位授与権を前提とするため、天皇の権威を再生させることになる。ただし徳川幕府は、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)(禁中并公家中諸法度)を定めることによって、天皇自体を法度の対象とした。また禁裏御領(皇室領)は収入・支出とも幕府の掌握するものとなった点で、幕府からの扶持の性格をもっている。天皇に残された皇位継承権・官位授与権・元号制定権さえ幕府の監督下に置かれており、近世の天皇・朝廷は幕府支配を権威づけるための、不可欠ではあるが一つの装置に過ぎなかった。しかし、将軍が天皇より授与される官職であるという形式は、幕藩制支配の行き詰まりがみえはじめる18世紀後半から、将軍は天皇から大政を委任された存在との思想家の言説を広げさせることになった。幕末の海防・外交問題の発生によって朝廷の国政関与の動きが始まり、通商条約調印の勅許を幕府が求めたことで、大政委任論は支配的イデオロギーとなる。欧米列強の開国・開港要求に幕府が屈従したことは、軍事権保持者の名義である征夷大将軍の威信を失墜させ、幕藩制にかわる新たな国家・社会編成を求めさせることになった。
[安田 浩]
1867年(慶応3)、薩摩藩・長州藩の討幕派志士と公卿(くぎょう)の画策で、朝廷から王政復古が布告された。天皇親政がこの政変の正当性の根拠とされた。しかし当時、明治天皇は満15歳の少年にすぎず、政変の実行者は天皇が決定者であるより、新政府の命令に権威を与える存在、天皇の意思と政府の意思の一致を行動で示す君主であることを求めた。その第一歩は、大坂親征として実行された。戊辰(ぼしん)戦争の開始と勝利で討幕派藩士指導層のヘゲモニー(主導権)が成立するが、その近代中央集権国家の建設を目ざす変革路線が軌道に乗るのは、1871年(明治4)の廃藩置県直後の官制改革で、公卿・諸侯の保守派が政権から排除され、薩長土肥の旧藩士指導層の連合政権が成立してからであった。このとき、太政官には正院・左院・右院が置かれ、正院には太政大臣以下の三職を設けて、天皇親政の名のもとに正院が最高国家意思決定機関であることが明確にされた。改革は宮廷に対しても行われ、公卿を中心にしていた天皇の側近奉仕者に、士族出身者が多数送り込まれた。女官も一度は総罷免して選抜する措置がとられた。文明開化政策の推進のなかで行われた1872年の巡幸では、天皇は洋服をまとい、その姿を騎馬で士民に示して、政府の政策の模範を演じることになる。
こうした藩閥官僚の政府のなかに埋没し、官僚の専制を権威づけるものとして存在していた天皇のあり方は、1877年ごろから変わりはじめる。天皇が自らの個人意思を表明しはじめ、宮中の侍補(じほ)が親政の実質化を要求する親政運動を展開する。侍補を廃止することで、この親政運動は抑え込まれたが、天皇と政府の関係には新たな制度化が必要になり始めた。また同じ時期に、高揚してきた自由民権運動の国会開設要求への対応も不可避になり始めた。明治十四年の政変(1881)で国会開設が約束されるが、その後進められた憲法制定に向けての一連の改革――華族令・内閣制・枢密院設置など――で、天皇と政府の関係の再制度化が図られ、1889年制定の大日本帝国憲法(明治憲法)で基本構造はまとめられた。
[安田 浩]
明治憲法は、「万世一系」の「神聖」にして不可侵の天皇が、統治権を「総攬(そうらん)」すると定めた。天皇は「帝国議会ノ協賛」をもって立法権を行使し、「国務各大臣」の輔弼(ほひつ)をもって行政権を行使し、司法権は天皇の名によって裁判所が行うとした。法制度上は天皇にあらゆる権力が集約されていた。しかし実際の政治運営の際には、基本的に天皇と内閣と議会が、意思決定の権限を分有することになる。しかも権力執行の中心に予定され、議会に優越していた内閣においても、権限は国務各大臣に分有されていた。くわえて、天皇の最高顧問府として枢密院が置かれていた。さらに軍事領域では、軍を指揮・命令する統帥権は内閣・議会が関与できないものとされ軍令機関(参謀本部・軍令部)が天皇に直属していた。統治権を天皇にすべて集約していながら、実際の権限は国家諸機関が分有する多元的構造になっていたのである。この結果、一方では国家意思の分裂の危険性をつねにはらみ、その解決のために天皇親政への衝動を絶えず生みながら、他方で政党内閣制まで含んだ多様な国家意思決定システムを成立させうる柔軟性をもつことになった。
議会開設から日清(にっしん)戦争までの初期議会の時期、軍備拡張予算の成立を図る藩閥政府と、民力の休養=減税を掲げる民党が激しく対立した。この内閣と議会の対立に際して、天皇はしばしば最終裁定者として親政を実施し、藩閥勢力の救済者となった。また、藩閥勢力のリーダーのなかで意見の対立が生じた際にも、天皇が公式・非公式にその意思を表明することで、事態の収拾が図られた。
日清戦争は、近代天皇制をめぐる権力構造を大きく変容させた。勝利した対外戦争を指導した君主という明治天皇像の成立は、天皇の権威を絶対的なものに高めた。また、天皇によって国家・国民が表象されているという意識も一般化し、天皇制は国民的基盤をもつようになった。藩閥勢力のリーダーから形成された元老は、政権を担い、また後継首相を推薦して、国家の基本方針を決定していたが、かれらが天皇の実質的な最高顧問機関になっていった。
政治勢力としては、伊藤博文を総裁とする立憲政友会が、旧自由党勢力を吸収して結成され、他方、官僚集団としての山県有朋閥が形成されて、官僚と政党が対立しながら提携する政治体制が成立した。この政治体制の形成で、天皇が内閣と議会の対立の裁定者として公式に登場することはほとんどなくなるが、元老間や国家諸機関の間の対立における調整者としての天皇の役割は強まり、天皇個人の権威の高まりもあって、その個人意思の表示は重要な機能を果たし続けた。
[安田 浩]
1912年明治天皇が死去し、病弱で、かねてよりその政治能力に疑念がもたれていた皇太子嘉仁(よしひと)が天皇位をついだ。この時期、明治維新からの国家目標の「万国対峙(たいじ)」は色あせ、軍部・各官庁・政党などの自立化、分散化が進行していた。統治能力に欠ける大正天皇の親政や詔勅で、それらを統合・調整することは期待できなかった。また、日露戦争の戦費負担に起因して、国家財政は困難でありながら強い減税要求があり、さらに都市では民衆騒擾(そうじょう)もしばしば発生して、政治の調整は困難になっていた。こうして大正政変で官僚・政党提携体制は破綻(はたん)した。さらに、米騒動を契機に成立した原敬内閣のもとで、大正天皇の病状悪化・統治能力の喪失を公表せざるをえなくなり、天皇親政が名目化していることが露呈した。政治決定の実権は首相に集中せざるをえなくなる。また、議会と内閣の連携を確保するために、政党内閣を成立させざるをえなくなる。こうした政治システムの成立は、最後の元老となった西園寺公望らによって推進された。天皇大権によって政党総裁を首相に任命する、天皇権力に依存した政党内閣制が成立した。
[安田 浩]
病気の大正天皇にかわって、天皇権威の回復の課題を背負ったのは、摂政となった皇太子裕仁(ひろひと)であった。その皇太子が狙撃された1923年(大正12)の虎の門事件を契機に、国民教化と治安体制の強化によって体制防衛を図ろうとする指向が高まり、「国体」が喧伝(けんでん)されるようになった。1926年大正天皇が死去して、新天皇の時代になる。昭和天皇は、天皇の意向を軽視して政治決定を進める内閣のあり方に不満を募らせ、1928年(昭和3)、張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件処理問題で田中義一内閣を総辞職に追い込んだ。次の民政党の浜口雄幸(おさち)内閣では、天皇・元老・宮中勢力は内閣の、ロンドン軍縮条約締結方針を支持した。この時期、天皇・宮中勢力は、対外協調方針で国益確保を図り、天皇の意向を尊重したうえで、政党内閣が政治決定を行うことを支持していた。
こうした対外協調方針と政党の優位化に軍部は反発を強め、1931年(昭和6)陸軍は満州事変を開始した。天皇・宮中勢力は、当初は内閣の不拡大方針を支持したが、軍部の反発の強さを知ると転換して軍事行動を追認し、さらに1932年に五・一五事件が発生すると、政党内閣の継続を放棄した。1936年、二・二六事件で重臣層が抹殺されると、軍部の政治システムの中軸としての位置が確定した。同時に、この事件で反乱軍の鎮圧をあくまで命じた昭和天皇は、大元帥としての役割と権威を確立した。のみならず、翌1937年からの中国との全面戦争(日中戦争)、1941年からの太平洋戦争のなかで、東亜新秩序さらに大東亜共栄圏建設を目ざす総力戦体制構築に国民を動員するため、国体イデオロギーが強化され、天皇は現人神として神格化されていった。1940年の日独伊三国同盟の締結において、天皇も対英米協調路線を放棄して軍部に同調し、また大政翼賛会が成立して政党・議会制が機能喪失し、軍部ファシズムといいうる政治システムが成立して、その頂点にたつ天皇となったのである。
[安田 浩]
第二次世界大戦での敗戦と日本国憲法の制定によって、戦後の象徴天皇制が成立した。ポツダム宣言の受諾に踏み切った日本の支配層は、これで「国体護持」――天皇が存在するだけでなく、統治権を総攬(そうらん)する天皇が君臨する体制――は可能と考えていた。しかし連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、一方で占領統治の円滑な遂行のため、日本国民に対する天皇の権威の利用を期待しつつ、他方、日本の帝国主義侵略性の根幹となった専制的天皇制の根本的改革を必要不可欠と考えていた。こうして戦後の憲法改革により、天皇という制度は存続したものの、国民主権が明記され、天皇は「象徴」であって憲法が定める限定された形式的な「国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と規定されることになった。象徴天皇には、通常の立憲君主のもっている政治上の外形的権限およびそれに基づく危機に際しての介入権限も与えられておらず、その点では君主とも元首ともいいえない存在となった。また旧皇室典範も廃止され、国会の制定した法律としての新たな皇室典範にかわり、神勅に基づく万世一系の君主に応じた制度として存在していた、大嘗祭(だいじょうさい)などの諸儀式は法文から削除された。
こうした改革に対応した天皇像の形成を図る最初の動きが、1946年(昭和21)の天皇人間宣言と戦後巡幸であり、民主化・人間化された、天皇・皇室のイメージの形成が図られる。しかし、このような非政治化された象徴天皇制に対しては、支配層のなかに強い不満が存在した。昭和天皇も新憲法下にもかかわらず、首相や閣僚に内奏を求めており、またマッカーサーとの会談では積極的な政治的発言を行った。1947年における、講和後日本の安全保障のために米軍の沖縄長期占領を認める、との提案はその代表的なものである。こうした政治支配層の不満はサンフランシスコ講和条約(対日講和条約)発効後、保守政党の憲法改正案として提起された。それは天皇を元首と規定し、内閣の助言のもとに宣戦・講和布告や条約批准などの元首権限を確立しようとするものであった。しかし1950年代の憲法改正の動きには、戦前への逆行を計るものとして国民の強い反発が生じ、日本社会党など護憲派が憲法改正の発議を阻止できる、議会議席の3分の1を獲得していったため、改正の動向は挫折(ざせつ)した。
他方、高度経済成長の始まりのなかで、第二次世界大戦後の象徴天皇制にあわせた皇室のイメージ形成の動きも本格化した。1959年の皇太子明仁(あきひと)と「平民」正田美智子との結婚とそれにかかわる報道合戦(いわゆる「ミッチーブーム」)は、「開かれた皇室」という新しい皇室像の喧伝の契機となった。経済成長とともに増加した、家庭の幸福と平和を至上価値とするマイホーム主義型の新中間層のあこがれ・シンボルとしての「皇室家族」像が流通してゆく。そのなかで昭和天皇についても、もともと学者で「平和主義者」であったというイメージが普及させられ、1960年代には象徴天皇制イデオロギーが国民に浸透していった。それは日本の天皇とは、政治権力をもたない象徴天皇のようなあり方が本来の姿で、明治憲法下の主権者天皇というあり方は例外である、というイデオロギーである。こうして、東京オリンピックや毎年の国民体育大会などのイベントに姿を示すことで、国民の同質性・一体性を表象する「儀礼君主」を主要な機能として、戦後の象徴天皇制は定着した。それは国民統合の象徴として、国家レベルでの集団内一体性・一体感を調達する装置であった。
[安田 浩]
こうした、国民の「幸福と秩序」のシンボルとしての天皇像が拡大された一方で、国家的権威を体現する天皇を求める動向も消滅することはなかった。戦前に、神武天皇即位日として創られた紀元節を、建国記念日とすることが1966年に定められた。1971年の天皇のヨーロッパ諸国訪問、1975年のアメリカ訪問と「外交君主」としての活動もこのころから活発化し、そこでは事実上の元首としての取り扱いがなされ、国家の威厳を天皇が象徴するような状況が生じてきた。とくに1980年ごろから天皇の権威を再強化しようとする動向が高まってくる。それは、「経済大国の国際的責任」という名目で、政治的・軍事的にも大国外交の追求を始めた政治支配層が、こうした能動的政策実施のために大国ナショナリズムによる国民統合の強化を望み、ナショナリズムのシンボルとして権威ある天皇を求め始めたからである。まず1979年に、元号が法制化された。「みんなで靖国(やすくに)神社に参拝する国会議員の会」がつくられ、1985年には首相中曽根(なかそね)康弘が靖国神社を公式参拝した。こうした状況で1988年、昭和天皇が重態に陥ると、祭りやイベントが次々と中止され、テレビの芸能番組も放送中止になるなどの異様な自粛が、死去・葬礼までの数か月にわたり行われた。1989年(昭和64、平成1)に大葬の礼が行われ、また1990年の即位礼および大嘗祭までの、一連の代替わり儀礼が行われた。これらの儀式の多くは憲法の国民主権原則、政教分離原則からみて問題をはらんでいたが、「伝統的権威」としての天皇像をつくるためおおむね第二次世界大戦前の儀礼形式に準拠させたのである。
天皇を国家的権威の象徴としようとする動向は、学校教育では早くも1977年(昭和52)の学習指導要領で「君が代」が国歌とされて打ち出されていた。さらに1989年の学習指導要領では学校儀式での国旗・国歌の掲揚・斉唱の義務化が行われた。そして1999年(平成11)、国旗・国歌法が制定されて、「君が代」=国歌が法制化される。
このように、1980年ごろから天皇に国家的権威を象徴させようとする動向が強まったが、それは必ずしも順調には進んでいない。1985年の首相の靖国神社公式参拝は、アジア諸国の強い反発をうけ、翌年からは中止になった。昭和天皇の死去前後の天皇ブームは、逆に昭和天皇の戦争責任をめぐる論議や、象徴天皇の権威化の動向に対する批判を日本内外でよびおこした。天皇の特殊な権威を強調すればするほど、日本は民主主義の基準からはずれた国家ではないのか、との疑念が生じることは避けられない。象徴天皇制のいっそうの権威化が進むか否か、その岐路が、問題となりつつあると考えられる。
[安田 浩]
『宮地正人著『天皇制の政治史的研究』(1981・校倉書房)』▽『義江彰夫著『日本通史Ⅰ――歴史の曙から伝統社会の成熟へ』(1986・山川出版社)』▽『水林彪著『日本通史Ⅱ――封建制の再編と日本的社会の確立』(1987・山川出版社)』▽『渡辺治著『戦後政治史の中の天皇制』(1990・青木書店)』▽『横田耕一著『憲法と天皇制』(1990・岩波書店)』▽『石上英一他編『講座 前近代の天皇』第1~5巻(1992~95・青木書店)』▽『鈴木正幸著『皇室制度』(1993・岩波書店)』▽『安田浩著『天皇の政治史』(1998・青木書店)』
昭和初期の国家論争の中でマルクス主義用語として登場し,社会科学用語として定着した日本独特の君主制を指す用語。狭義には明治維新から第2次大戦での敗戦までの近代天皇制を指すが,広義には古代天皇制,戦後の象徴天皇制なども含まれる。また,天皇制は単に国家権力概念としてだけでなく,イデオロギー,社会秩序,精神構造を含む概念として使用されることがある。ここでは近代天皇制について述べる。
幕末の欧米列強の圧力による開港後,日本は資本主義化と中央集権的国民国家の形成が課題となったが,それを担う市民階級の形成が不十分だったため,武士階級内部の改革派によって維新の政治変革が行われた。このため,近代的価値観に基づく民主国家が建設されず,半宗教的伝統的権威に依存した専制的国家が樹立された。その際,旧幕藩権力から遠くかつ権威ある存在だった朝廷が政治統合の中心となるのに最も適していたので,維新国家は王政復古という形で成立した。そこでは天皇親政をたてまえとし,律令時代に擬した太政官(だじようかん)制が採用され,太政官に立法,司法,行政,軍事の権が集中する専制体制であった。しかし,近代化は至上命題であったから,復古形式とはうらはらに廃藩置県,身分制改革,地租改正,学制,徴兵制,殖産興業が行われた。その遂行主体は大久保利通,木戸孝允,西郷隆盛ら薩摩,長州などの藩閥官僚であった。これは自由民権派に有司擅制(せんせい)と呼ばれ,批判の対象となり,彼らの要求である憲法制定,国会開設を受け入れざるを得なくなり,内閣制度の採用(1885),大日本帝国憲法制定(1889),国会開設(1890)により,君主主義と議会制の矛盾的結合である特殊な立憲君主制国家(外見的立憲制)に移行した。そこでは太政官制と異なり,唯一の統治権者である天皇の下に,立法,司法,行政,軍事の機関が分立する形をとったため,制度上では国家意思の形成決定は天皇が親政しないかぎり,多元的にならざるを得なかった。明治期にはこの多元性を一元化するものは,維新の元勲である伊藤博文,山県有朋ら元老と呼ばれた憲法に規定のない政治集団であった。日清戦争までは彼らによる議会を無視した政権独占が行われ(超然主義),衆議院の民党と対立した。しかし,軍備拡張のために膨張する予算を実現するには政党と妥協する必要があり,他方,政党もその基盤である地主・資本家が政府の積極政策を支持するにつれ妥協的となり,日清戦争後に両者は歩み寄り,伊藤博文を総裁とする政友会が結成(1900)されるにいたった。他方,非妥協的部分は山県有朋を頂点とする官僚閥を形成した。
憲法制定と並んで天皇の権威を確立するために行われたのが,その経済的基礎である皇室財産の設定と社会的藩屛(はんぺい)としての華族の創出であった。皇室御料(不動産)は,1872年(明治5)には約1000町歩であったが,82年岩倉具視の意見書により,民党に対抗して皇室の自律性を高めるため,御料局を設置(1885)して皇室財産の拡張が行われ,90年の国会開設時には約365万町歩にもなった。それは約1万町歩の耕地と山林原野からなり,皇室は日本最大の土地所有者であった。また1884年以来株式も所有し,99年には約23万株を持ち,日本銀行,日本郵船などの筆頭株主でもあった。ちなみに1945年には皇室財産は約16億円という巨大なものであった。この中から,米騒動など社会不安が高まったとき,下賜金として配布されるなど慈恵政策的にも使われた。華族制度は版籍奉還時に,旧大名・公家を華族としたことから始まったが,1884年の華族令により旧華族に維新の功労者を加えて,国会開設後に予測された民党-衆議に対抗する機関-貴族院を構成するものとして再創出された。華族は特権身分であったが,ヨーロッパの貴族のように時として国王に対立するということはなく,天皇に強く従属した存在であった。天皇制が華族を必要としていたのは,単に貴族院構成者としてだけでなく天皇統治の正当性が,万世一系の至高の血統を継承したことによって証明されるものであったため,その血統の貴種性を再生産するために,皇族と婚姻しうる特殊な貴種身分を必要としたからでもあった。
天皇制の成立過程にみられた特質は,国家イデオロギーと国家秩序のあり方をも規定した。天皇という伝統的権威づけは神道教義に基づいて行われたため,天皇統治の正当性を論証するイデオロギー=国体論も著しく神秘性を強めた。それは,皇室の祖先神である天照大神を最高神化したうえで,その下したとされる天壌無窮の神勅を受けた皇祖以来,万世一系,日本の統治権を天皇家が継承してきたことにその正当性論拠が求められたからである。このため神道は事実上国家宗教たらざるを得なかった。そこで天皇は統治権者という政治的存在であるだけでなく,皇祖神を祭る最高聖職者であり,みずからも神の後裔(こうえい)として現人神(あらひとがみ)となったのである(祭政一致)。これが国家イデオロギーとして機能しえたのは,1901年に小学校就学率が80%にも達したということからもうかがい知れる教育の普及と,そこでの徹底した尊皇愛国教育の注入によるものであった。しかし他方では,当時の日本社会は家制度と家意識が濃厚であり,家格の良さ古さはそれ自体として価値をもつと考えられていたことによるものでもあった。こうした家父長制的秩序意識の残存と,国民の大部分が長期間単一民族であったことを反映して,明治末期には,皇室=国民の宗家,天皇=国民の父,国民=天皇の赤子という家族国家観が成立した(家族制度)。そこでは君への忠と親への孝が一致するという日本道徳論が展開された。そのため家父長に対し家族が無権利であるように,国民は天皇に対して権利主体として立ち現れることはできなかった。また国家を一大家族としたため,国家秩序と社会秩序,すなわち法的関係と道徳的関係の区別が明確でなく,国家が道徳律(教育勅語)を与えたのみならず,個人の内面にまで介入することがあった。しかし,資本主義の発展に伴う家父長制的秩序の解体傾向と,近代化による合理的思惟の発展は,国体論や家族国家観における神秘的非合理的説明の有効性を稀薄化していくことになった。そこで維新以来の国民的課題であった対外的国家自立を望む国民のナショナルな意識を国家の側に吸収するため,対外的危機の造出がくりかえされた。日清戦争の勝利により,台湾と償金という対外侵略の利益と,欧米への民族的コンプレクスの一定の解消が国家によってもたらされたとき,国民的栄光を担うものとしての国家と天皇の権威は国民の中に確立し,天皇制はナショナリズムを独占することができた。
大正・昭和戦前期においても,明治期に確立した国家機構=帝国憲法体制と国家イデオロギーの大枠そのものは変化しなかったが,時代の変化に応じた新しい諸相が現れた。
日清戦争後にその政治的比重を高めた政党は,日露戦争後になると官僚閥と交替で政権をとるようになり(桂園内閣),1918年の米騒動後の原敬内閣を経て,24年の護憲三派内閣以降政党内閣期に入った。これは一方における国民の政治意識の向上と,他方における政友会を中心とした地方利益誘導策などにより,国民に基礎をもたない官僚閥(藩閥官僚)が統合能力を弱め,代わって政党が分立する統治機関を統合する勢力として台頭したからであった。しかし,帝国憲法体制の枠内では完全な議会主義を確立することはできず,また,軍部,官僚はなお独立性をもっていたことから,政党は彼らと癒着して政権についたのであった。しかもなお元老(西園寺公望)が内閣首班の奏請を行うというシステムに変りはなかった。
明治天皇の死により,天皇の人格的権威に依拠しての君主制の維持は困難となり,不敬罪事件も増大した。このため一方では皇室尊崇を儀式化,制度化するとともに,他方では〈国民の天皇〉化,すなわちイギリス型君主制への一定の傾斜を示した。昭和天皇(当時の摂政宮)のイギリス訪問とその報道のあり方はそれを端的に示していた。この傾向は井上哲次郎のように国体と民本主義を結合させた新国体論をも生み出した。しかし,大正後期には共産主義運動も起こり,天皇制の否定が叫ばれるようになると,治安維持法を制定し,国体変革運動を抑圧するようになった。
大正デモクラシーの進展と政党内閣の成立は,美濃部達吉らによる帝国憲法の自由主義的解釈である天皇機関説を広めさせることになった。美濃部は,国家を国民によって構成される団体と考え,その団体自身が統治権の主体であり,君主はその統治権の最高行使機能をもつ機関であるとした。また,天皇は憲法上政治的責任を負わないのであるから,天皇を補佐する国務大臣が政治のすべての責任を負うこととなり,それゆえ天皇の政治的行為はすべて国務大臣の補佐なくしては行い得ないとした。さらに軍の統帥権も国務大臣の補佐によることも解釈上可能であり,大臣は議会に責任を負うべきだとした。美濃部説は,軍部,官僚らの天皇の名による恣意(しい)的政治を抑え,政党政治,議会主義を促進するものであり,天皇制をイギリス型立憲君主制に近づける法理論であった。
第1次大戦後,国際連盟の設立に表れたように国際協調体制が出現した。日本も対米協調外交を基本としたので排外主義的ナショナリズムは減価し,吉野作造にみられるような国際協調こそ真の国益であるとするナショナリズムも現れた。しかしそれは少数であり,また社会主義者は,天皇制とナショナリズムを切り離して考えずに同時に否定したため,天皇制とナショナリズムは依然結合されたままであった。
金融恐慌,昭和恐慌によって財政経済の危機が激化し,また政友会,民政党が政権をめぐって泥仕合を続けたため,国民の政党離れが進んだ。さらに中国の民族解放運動が進展し満蒙の危機が叫ばれるようになると,軍部は満州事変(1931)を起こし,五・一五事件(1932)を機に政党内閣に終止符を打った。以後しだいに軍部が政治的主導権を握り,また新官僚,革新官僚と呼ばれた官僚群が軍部と結んで内政をリードした。日中戦争(1937)の開始後,国家総動員法が制定されて戦時統制が強化され,1940年政党解散=大政翼賛会の成立,41年の東条英機内閣の成立によって軍部独裁が確立した。しかし,この過程は同時に天皇の政治的価値の上昇をもたらしたので,天皇の政治的意思に最も影響を与えうる内大臣や元首相ら宮廷重臣グループの役割もまた重要になった。彼らは軍部の暴走を抑えようと試み,敗戦必至の情勢にいたると東条内閣を打倒し,天皇制護持のためポツダム宣言受諾に傾き,天皇の決断に影響を及ぼした。日本の軍部独裁は,宮廷重臣グループという異質の政治勢力を排除し得なかったところにナチス独裁体制と異なる側面をもった。
世界恐慌,満州事変,ヒトラー政権の誕生(1933)等は国際協調体制を終了させ,それとともに満州事変勃発時の国民的な排外主義勢力にみられる侵略主義的ナショナリズムを浮上させた。また,政党内閣の崩壊は議会制による国民統合とそのイデオロギーに替わる統合方式とシンボルを必要としたので,超越的価値としての天皇・国体が再び浮上した。しかも昭和初年以来の左翼運動の弾圧によって,社会運動は天皇制のたてまえである一君万民主義に依拠して展開せざるを得なくなったため,いっそう,天皇・国体の価値が上昇した。このため自由主義的な天皇機関説は排撃され,神秘的な国体論が支配的となり,天皇の絶対的神格化が進み,神州不滅が叫ばれるようになった。しかし,戦局の悪化と生活の困窮は,こうしたイデオロギーの統合力を減少させ,反戦不敬言動をも増大させた。そして敗戦は,軍事的勝利によって支えられていた天皇制ナショナリズムの崩壊をもたらした。天皇人間宣言は天皇統治の正当性を否定し,日本国憲法の制定は帝国憲法体制に終止符を打ち,固有な意味での天皇制は終わったのである。
天皇制国家論争とは,昭和初年にマルクス主義者の間で行われた近代天皇制国家の本質をめぐる論争のことをいう。共産党系マルクス主義者(講座派)は,天皇主権下の専制的国家機構を支える経済的基盤を地主的土地所有に見いだし,それが半封建的性格をもつことから,それに支えられた天皇制国家を絶対主義的国家と規定した。これはコミンテルンの〈32年テーゼ〉の正しさを論証しようとしたものであった。これに対し,非共産党系マルクス主義者(労農派)は,明治維新以来国家が資本主義を育成し,廃藩置県,地租改正により封建的領有制を廃止,後には独占資本主義国にまで発展したこと,地主的土地所有下の高率小作料は小作農民の耕地獲得競争によってもたらされたものであることなどから,天皇制国家を封建的遺制をもったブルジョア国家と規定した。この論争はそれぞれの革命戦略の正しさを論証する布石として行われた(講座派は当面の革命は社会主義革命に急速に転化するブルジョア民主主義革命とする二段階革命説を,労農派は直ちに社会主義革命を遂行するという一段階革命説をとっていた)。そのため党派的争いが介入し,両者とも譲らなかった。そのうえ,天皇制国家そのものを直接論ずることは権力の弾圧を受ける危険性があったので,もっぱら経済的基盤とくに土地所有の性格規定をめぐって争われたため,国家論固有の領域での理論的深化は少なかった。
近年では,これらに加えて,維新政権=後進国型軍事独裁政権説,帝国憲法体制=ドイツ型立憲君主制説,大正期以降ボナパルティズムへの傾斜を示したとする説などが出されているが決着をみていない。この中で,絶対主義的国家説が比較的有力であるが,ヨーロッパ絶対主義においては絶対王権がローマ教皇に対する世俗的権力であったこと,絶対君主の親政が行われたこと,また社会的諸権力,すなわち貴族権力やギルドなどの社団と呼ばれる半自律的権力を完全に否定しきれなかったことなどの特徴をもち,日本の天皇制とは異質の側面を有していたことも明らかにされており,なお検討されなければならない課題を残している。
→天皇
執筆者:鈴木 正幸
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天皇を中心とする日本の国家体制の呼称。1920~30年代,おもにマルクス主義者により変革・打倒の対象として盛んに用いられるようになったが,第2次大戦後は,きわめて多義的な概念となっている。古代において宗教的権威を背景に天皇を中心とした律令制国家体制が形成されたが,武家政治の時代,とりわけ江戸時代を通じて天皇の実質的政治権力は失われた。明治維新を契機にその伝統的権威を背景として,天皇を中心とする近代国民国家の建設が進められた。1889年(明治22)発布の大日本帝国憲法は,天皇を統治権の総攬(そうらん)者と定め,統治権が憲法の条規により行使されるべきことを規定。君権主義原理と立憲主義原理を併存させた天皇制国家体制が確立した。1930年代は権力機構の一環である軍部の政治的肥大化が進んだが,45年(昭和20)の敗戦により天皇制権力機構はおおむね解体された。47年施行の日本国憲法では天皇の国政への権能は否定され,日本国および日本国民統合の「象徴」と位置づけられ,国民主権のもとでの象徴天皇制が形成された。
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… しかし,戦局が末期的となり,もはや日本軍の挽回が不可能と確信して以後,天皇は講和に向けて積極的に動きはじめ,和戦両派の対立を収拾してポツダム宣言受諾にもちこんだのである。戦後は,連合国の天皇制への強い非難と天皇の戦争責任追及の声が起こるなかで,“戦争責任を認めるような形で退位すると天皇制そのものが危うくなる”という〈国体護持〉の観点から退位を拒み,天皇制維持に全力を傾倒した。45年9月27日のマッカーサーとの会見,46年1月1日のいわゆる〈天皇人間宣言〉,明治憲法を根本的に否定するいわゆるマッカーサー草案を日本政府の憲法改正案として承認したことなどは,いずれも,こうした天皇制維持の目的のために余儀なくされたものであった。…
…天皇や皇族あるいはその墓などに対しその名誉を毀損する行為を処罰する罪名。不敬罪は,近代天皇制国家の成立にともない1880年(明治13)7月17日に公布された刑法典(旧刑法と呼ぶ)の第2編第1章〈皇室ニ対スル罪〉のなかに登場し,1907年の旧刑法全面改正(1908施行。以下,明治40年刑法と呼ぶ)においても若干の修正を受けたのみで残り,47年(昭和22),新憲法の施行にともなう刑法一部改正によって廃止されるまで,天皇や天皇制に関する思想や学問・言論の抑圧,さらには新興宗教団体の弾圧に猛威を振るった。…
※「天皇制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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