尾高尚忠(読み)オタカヒサタダ

デジタル大辞泉 「尾高尚忠」の意味・読み・例文・類語

おたか‐ひさただ〔をたか‐〕【尾高尚忠】

[1911~1951]指揮者作曲家。東京の生まれ。尾高朝雄の弟。ウィーン留学指揮法ワインガルトナーに学ぶ。日本交響楽団の常任指揮者となり、日本の交響楽運動に貢献死後、作曲に関する「尾高賞」が設けられた。

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精選版 日本国語大辞典 「尾高尚忠」の意味・読み・例文・類語

おだか‐ひさただ【尾高尚忠】

  1. 作曲家。指揮者。東京出身。ウィーン音楽院に学ぶ。日本交響楽団(後のNHK交響楽団)の常任指揮者。死後、功績を記念して、作曲に関する尾高賞が設置された。代表作「日本組曲」。明治四四~昭和二六年(一九一一‐五一

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「尾高尚忠」の解説

尾高 尚忠
オタカ ヒサタダ


職業
指揮者 作曲家

肩書
NHK交響楽団常任指揮者

生年月日
明治44年 9月26日

出生地
東京都

学歴
成城学園高中退 ウィーン音楽院作曲科マイスタークラス〔昭和12年〕修了

経歴
祖父は学者・教育者の尾高惇忠、父は実業家の尾高次郎、兄の尾高豊作、尾高朝雄、尾高鮮之助、尾高邦雄もそれぞれ教育家・研究者として名をなし、母方の祖父は渋沢栄一という名門に生まれる。成城高校在学中に渡辺シーリーにピアノを、片山穎太郎に作曲理論を教わる。のち同校を中退して昭和6年渡欧し、ウィーン音楽院でヤーンベーアル、シュテールらにつき作曲やピアノを学んだ。7年いったん帰国して武蔵野音楽学校(武蔵野音楽大学)で音楽理論を講じる傍ら、レオ・シロタにピアノを、プリングスハイムに作曲を師事。9年再びウィーン音楽院に留学し、ヨゼフ・マルクスに作曲、ワインガルトナーに指揮法を学ぶ一方で個人的にモーザーに作曲の指導を仰いだ。11年ワインガルトナーが主催した日本人作曲家対象のコンクール、ワインガルトナー賞管弦楽曲「日本組曲」で応募して入選。12年に同院を修了してからは指揮者として活動し、ウィーン交響楽団、ベルリン・フィルハーモニー交響楽団などと共演した。15年帰国。同年東京高等音楽学院(国立音楽大学)教授に就任。16年モーツァルトやブラームスの作品とともに自作の「交響詩〈芦屋乙女〉」「みだれ」を自演して楽壇デビューを果たし、17年には自作の室内楽作品発表会を開催。同年新交響楽団(NHK交響楽団)の常任指揮者となり、以後死去するまでタクトを振るい続けた。一方で作曲も続行し、「ピアノと管弦楽のための狂詩曲」(18年)、「交響的幻想曲〈草原〉」「チェロ協奏曲」「交響的歌曲〈いくさうた〉」(19年)、「交響的歌曲〈斎迫歌〉」(20年)、「ピアノとオーケストラのための協奏組曲」(21年)といったオーケストラ曲を同楽団の演奏で次々と発表。その作風はドイツ・ロマン主義を基盤としたうえで日本的な風趣を加えたものであった。しかし、戦中・戦後の混乱期で無理を重ね、過労のため26年39歳の若さで死去。23年発表の「フルート協奏曲」を管弦楽版に改作中であったが未完に終わっており、弟子の林光がこれを補筆、完成させ、没後に開かれた追悼演奏会で山田一雄指揮、吉田雅夫の独奏で初演された。他の主要作品には「行進曲〈南進〉」「バイオリンとピアノのためのソナタ」「弦楽四重奏曲第1番」「ピアノ三重奏曲」「弦楽四重奏曲第2番」「夜曲」「変奏曲」「ローマンツェ」「三つの肖像画」、歌曲「からまつ」などがある。死後、芸術選奨文部大臣賞が贈られたが、その賞金は遺族を通じてNHK交響楽団に寄託され、27年9月尾高賞が設けられた。また代表作の一つ「交響曲第1番」は長い間第一楽章のみであとは未完だと考えられてきたが、近年になって第二楽章の楽譜が発見され、外山雄三の補筆・指揮により18年彼にゆかりのNHK交響楽団の定期公演で演奏され、話題となった。妻はピアニストの尾高節子であり、長男の尾高惇忠、二男の尾高忠明ともに音楽界で名を成した。

受賞
ワインガルトナー賞〔1936年〕「日本組曲」,平和の鐘建設資金募集第1席「交響曲第1番」,芸術選奨(音楽舞踊部門 第1回 昭和25年度),毎日音楽賞(第3回 昭和26年度)「フルート協奏曲」,文部大臣賞

没年月日
昭和26年 2月16日 (1951年)

家族
妻=尾高 節子(ピアニスト),長男=尾高 惇忠(作曲家),二男=尾高 忠明(指揮者),父=尾高 次郎(実業家),兄=尾高 豊作(出版人),尾高 朝雄(法哲学者),尾高 鮮之助(美術研究家),尾高 邦雄(社会学者),祖父=渋沢 栄一(実業家)

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20世紀日本人名事典 「尾高尚忠」の解説

尾高 尚忠
オタカ ヒサタダ

昭和期の指揮者,作曲家 NHK交響楽団常任指揮者。



生年
明治44(1911)年9月26日

没年
昭和26(1951)年2月16日

出生地
東京

学歴〔年〕
成城学園高中退,ウィーン国立音楽院作曲科マイスタークラス〔昭和12年〕卒

主な受賞名〔年〕
ワインガルトナー賞〔昭和11年〕「日本組曲」,平和の鐘建設資金募集第1席「交響曲第1番」,芸術選奨(第1回・昭25年度・音楽舞踊部門),毎日音楽賞(第3回・昭26年度)「フルート協奏曲」,文部大臣賞

経歴
昭和6〜7年ウィーン国立音楽院で作曲、ピアノを学び、帰国して武蔵野音楽学校講師。9年再びウィーンに留学、F.ワインガルトナーに指揮を学んで15年帰国。同年東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)教授に就任。16年交響詩「芦屋乙女」「みだれ」を自作自演してデビュー。17年新交響楽団(のち日本交響楽団 NHK交響楽団と改称)の常任指揮者となり、以後死去するまで指揮を続けた。他の主要作品には「交響曲第1番」「ピアノと管弦楽のための狂詩曲」「フルート協奏曲」などがある。死後、文部大臣賞が贈られ、賞金はNHK交響楽団に寄託され、27年9月尾高賞が設けられた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「尾高尚忠」の意味・わかりやすい解説

尾高尚忠
おたかひさただ
(1911―1951)

指揮者、作曲家。東京生まれ。成城高等学校文科在学中の1931年(昭和6)に渡欧、ウィーン音楽院で作曲と指揮法を学び、36年の卒業作品『日本組曲』はワインガルトナー賞を受けた。ヨーロッパ各地で指揮して40年に帰国。42年から日本交響楽団(N響の前身)の常任指揮者として活躍するかたわら、作曲活動を行い、作品に、交響曲第1番、『ピアノと管弦楽のためのラプソディ』、フルート協奏曲など。52年(昭和27)功績を記念して日本人作曲家に与えられる「尾高賞」が設けられた。指揮者尾高忠明(ただあき)(1947― )は子息。

[船山 隆]

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「尾高尚忠」の解説

尾高 尚忠

東京生まれ。成城高等学校中退後、1931年にウィーン音楽アカデミーに留学。1年半学んだ後一旦帰国し、プリングスハイムに作曲を学ぶ傍ら、武蔵野音楽学校で音楽理論を教える。 34年再びウィーンに戻り、アカ ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「尾高尚忠」の解説

尾高尚忠 おだか-ひさただ

1911-1951 昭和時代の指揮者,作曲家。
明治44年9月26日生まれ。ウィーン国立音楽学校を卒業し,昭和15年までヨーロッパで指揮者として活躍。帰国後は日本交響楽団(現NHK交響楽団)専任指揮者となる。過労のため昭和26年2月16日急死。39歳。功績を記念して尾高賞(作曲賞)が設定された。東京出身。作品に「フルート協奏曲」「日本組曲」など。

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367日誕生日大事典 「尾高尚忠」の解説

尾高 尚忠 (おだか ひさただ)

生年月日:1911年9月26日
昭和時代の指揮者;作曲家。NHK交響楽団常任指揮者
1951年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の尾高尚忠の言及

【NHK交響楽団】より

…36年ローゼンストックを常任指揮者に迎えるに及び飛躍的にその質を向上。42年日本放送協会と新交響楽団を設立者として日本交響楽団(日響と略称)が設立され,同年山田和男,尾高尚忠が専任指揮者に就任。51年現在の名称に改称。…

※「尾高尚忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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