山下徳治 (やましたとくじ)
生没年:1892-1965(明治25-昭和40)
教育学者。本名は森徳治。鹿児島県徳之島生れ。鹿児島一中,鹿児島師範学校を卒業,地元小学校教師をへて,1920年東京の私立成城小学校教師となる。22年校長沢柳政太郎にみこまれ,ドイツのマールブルク大学に留学,5年の研鑽をへて27年帰国。沢柳の死後,自由学園に移り,革命後のソ連を訪問,マルクス主義教育学へ関心を深め,29年《新興ロシアの教育》を刊行,30年新興教育研究所創設に参加(プロレタリア教育運動)。雑誌《新興教育》に社会科学としての教育学をめざす重要論文を多数発表する。32年《日本資本主義発達史講座》に〈教化史〉を執筆。のち《教育》(岩波書店)の編集や教育科学研究会に参画,カリキュラム改造,教育方法学の科学的建設に従事,《児童教育基礎理論》(1938),《明日の学校》(1939)を刊行する。第2次大戦後は民主的教育運動に直接には参加せず,評論活動を続けた。日本におけるマルクス主義的教育学建設の先駆者であった。
執筆者:海老原 治善
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
山下 徳治
ヤマシタ トクジ
大正・昭和期の教育者,教育運動家
- 生年
- 明治25(1892)年1月15日
- 没年
- 昭和40(1965)年7月10日
- 出生地
- 鹿児島県鹿児島市
- 本名
- 森 徳治
- 学歴〔年〕
- 鹿児島師範〔大正2年〕卒
- 経歴
- 西田小学校などに勤め、大正11年ペスタロッチ研究のためドイツへ留学。帰路、ソ連の教育を見学し、昭和4年再度訪ソした。この頃プロレタリア科学研究所所員となり、4年「新興ロシアの教育」を刊行。5年新興教育研究所の創立に参加し初代所長に就任。日本教育労働者組合準備会の組織にも参加した。のち岩波書店の「教育」の編集長となり、教育科学研究会の活動に参加した。37年日本スポーツ少年団本部委員。他の著書に「デューイ」「児童教育基礎理論」「明日の学校」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
山下徳治 やました-とくじ
1892-1965 大正-昭和時代の教育者。
明治25年1月15日生まれ。成城小学校,自由学園で教師をつとめる。ソ連の教育を視察後マルクス主義教育学に関心をふかめ,昭和5年新興教育研究所を創設,プロレタリア教育の普及につくした。昭和40年7月10日死去。73歳。鹿児島県出身。鹿児島師範卒。本名は森徳治。山下は旧姓。著作に「新興ロシアの教育」「明日の学校」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
山下 徳治 (やました とくじ)
生年月日:1892年1月15日
大正時代;昭和時代の教育者
1965年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の山下徳治の言及
【プロレタリア教育運動】より
…〈教労〉は,教育労働者の生活改善の要求を掲げる一方で,迫りくる帝国主義戦争に抗して反戦平和の教育をおしすすめた。こうした教員組合の運動と表裏をなして,同じく30年の8月に合法的文化団体として設立された〈新興教育研究所〉(所長は[山下徳治])が,プロレタリア教育の理論化と普及に努めた。その機関誌《新興教育》もまた戦争反対の論陣をはり,軍国主義教育を批判し,さらに[ピオネール](校外児童組織)の結成を促すなど盛んなイデオロギー活動を行った。…
※「山下徳治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」