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沢柳政太郎 さわやなぎ まさたろう

美術人名辞典の解説

沢柳政太郎

教育者。文学博士長野県生。初め文部省総務局に勤め、森有礼・榎本武揚らの下で働く。各地で校長職を勤めた後、文部次官・貴族院議員・高等教育会議議員となる。東北帝大総長・京都帝大総長を歴任し、辞任後は帝国教育会会長・私立成城中学校校長となるなど、近代の代表的教育者として活躍した。『退耕録』『我国の教育』等著書多数。昭和2年(1927)歿、63才。

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デジタル大辞泉の解説

さわやなぎ‐まさたろう〔さはやなぎまさタラウ〕【沢柳政太郎】

[1865~1927]教育家。長野の生まれ。貴族院議員。文部次官を経て、東北大・京大総長を歴任後、帝国教育会会長となる。大正6年(1917)成城小学校創設、子供の自発的活動を重んじる新教育運動を展開した。

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百科事典マイペディアの解説

沢柳政太郎【さわやなぎまさたろう】

明治・大正期の教育家。信州松本生まれ。東大卒後文部省に入り,二高・一高校長,文部次官,東北大・京大総長を歴任。大学自治権をめぐる京大沢柳事件(1913年)後,官・学界の第一線を去り,成城小学校(成城学園)を創立し,ドルトン・プランの導入など大正期の自由教育運動に貢献した。
→関連項目長田新新教育運動大正大学男女共学東北大学

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

沢柳政太郎 さわやなぎ-まさたろう

1865-1927 明治-大正時代の教育者。
慶応元年4月23日生まれ。文部官僚として小学校令を改正し,授業料を無償にし,義務教育を6年に延長した。明治44年東北帝大初代総長。大正2年京都帝大総長となるが,教授の任免をめぐっての紛糾により,翌年その責任をとって辞任(沢柳事件)。以後,帝国教育会会長をつとめ,成城小学校を創立して新教育運動におおきな影響をあたえた。昭和2年12月24日死去。63歳。信濃(しなの)(長野県)出身。帝国大学卒。著作に「実際的教育学」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

さわやなぎまさたろう【沢柳政太郎】

1865‐1927(慶応1‐昭和2)
明治・大正期の教育者。信州(長野県)松本に生まれた。1888年東京帝国大学卒業後,文部書記官,第二・第一高等学校長を経て98年文部省普通学務局長となり,その後文部次官(1906)もつとめた。在任中の業績としては,とくに1900年の小学校令改正,義務教育費無償化が高く評価されている。11年東北帝国大学の初代総長(東北大学)となり,13年には京都帝国大学総長となったが,いわゆる〈京大沢柳事件〉(教授の任免権をめぐる抗争事件。

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大辞林 第三版の解説

さわやなぎまさたろう【沢柳政太郎】

1865~1927) 教育行政官・教育学者。信州松本の人。帝国大学文科大学卒。文部省学務局長として普通教育制度の原型を確立。京都帝大総長のとき、教員の任免権をめぐって教授団と対立、文部省が教授任免に関する教授会の権限を認めて引責辞職した(沢柳事件)。また、成城学園を創設し、新教育運動の実践にも尽力した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

沢柳政太郎
さわやなぎまさたろう

[生]慶応1(1865).4.23. 松本
[没]1927.12.24. 東京
教育行政官,教育家。 1888年東京大学卒業後,文部書記官,第二高等学校長,高等師範学校長などを経て,1906年文部次官。 11年東北大学初代総長に就任。 13年京都大学総長となったが,いわゆる「沢柳事件」により退任。以後,民間教育運動家として大きな役割を果した。 14年帝国教育会会長。 17年には成城学園 (→成城大学 ) を創設して,新教育運動に指導的役割を果した。著書に,『沢柳全集』 (6巻,1926) がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

沢柳政太郎
さわやなぎまさたろう
(1865―1927)

明治・大正期の文部官僚、教育者。慶応(けいおう)元年長野県松本に生まれる。1888年(明治21)東京帝国大学文科大学卒業。文部省に入り、第二高等学校校長、第一高等学校校長などを歴任、1898年文部省普通学務局長、1906年(明治39)文部次官。この間1900年の小学校令改正(尋常小学校を4年制に統一、授業料不徴収)、1907年の小学校令改正(義務就学年限を6年に延長)で中心的役割を果たす。1911年東北帝国大学新設とともに初代総長、初めて女性に帝国大学の門を開いた。1913年(大正2)京都帝国大学総長となったが、翌1914年いわゆる沢柳事件のため辞任。以後1915年に帝国教育会会長に就任、1917年には成城(せいじょう)小学校を創設。大正期の新教育運動へ理論的、実践的に大きな影響を与えた。著作集に『沢柳政太郎全集』10巻・別巻1(1975)がある。[尾崎ムゲン]
『新田貴代著『沢柳政太郎・その生涯と業績』(1971・成城学園沢柳研究会)』

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世界大百科事典内の沢柳政太郎の言及

【教育会】より

… 帝国教育会の果たした役割は時代によって変わった。注目されるのは第1次大戦後の沢柳政太郎会長,野口援太郎専務主事の時代である。1917年の全国小学校女教員会の開催,18年各府県の教育会の連合組織の結成,21年政府の地方教育費整理節減案への批判,そのほか機関誌《帝国教育》の発行,教員の研究活動への援助,国際的教育運動との連携等々の事業は,政府の政策とは離れた独自のプレッシャー・グループとしての役割を果たした。…

【教育学】より

… 20世紀とくに1910年代に入ってからは,欧米の新教育運動に刺激され,ヘルバルトは時代遅れとされ,デューイをはじめ,パーカーFrancis Wayland Parker(1837‐1902),E.ケイ,モイマンErnst Meumann(1862‐1915)らの新教育を支えた理論の紹介がさかんに行われ,これが日本の新教育運動を促進するという役割を果たした。この欧米の教育学説の紹介を繰り返す教育学のあり方に対し,沢柳政太郎は《実際的教育学》(1909)で,教育の事実を対象とした研究の必要を提唱した。さらに1930年代に入り,阿部重孝,城戸幡太郎らの編集になる岩波講座《教育科学》(1931‐33)が刊行され,観念的教育学を批判し,教育の事実を実証的に把握し解明する方針がとられた。…

【清沢満之】より

…88‐90年の間京都府が東本願寺に経営を委託した京都尋常中学校の校長を務め,辞職後厳しい禁欲生活に入り,衣食住に〈ミニマム・ポシブル〉を求めて自己鍛錬に努めた。94年結核を発病し,道友沢柳政太郎らの強請で兵庫県舞子で療養生活に入ったが,この間内面に大きな転換があり,〈自力の迷情〉をひるがえして他力の信仰を獲得した。このころ東本願寺では1864年(元治1)兵火焼失後の再建経費と多くの負債整理のため財政本位の宗政が行われたが,清沢らは本来の教学中心の寺務に改めるよう建言し,96年京都白河村に籠居し,同志とともに《教界時言》を発刊して改革を訴え,井上円了,村上専精,南条文雄ら宗門学者も呼応した。…

【成城学園】より

…東京都世田谷区成城にある私立総合学園。1917年沢柳政太郎が東京牛込の成城学校(1885年に〈文武講習館〉として発足した学校)に成城小学校を併設したのがその誕生である。沢柳はここを日本の初等教育改造のための研究・実験校とし,小原(おぱら)国芳,赤井米吉(のち1924年,東京井の頭に明星学園を創設)ら有能な教師をここに招き,雑誌《教育問題研究》を発行することなどを通して教育改造への気運をもりあげた。…

【大正大学】より

…26年大学令による大正大学設立。初代学長に仏教連合の大学創設提唱者の一人,沢柳政太郎(前京大総長)を迎える。43年真言宗智山派の智山専門学校を合併,第2次大戦後の49年新制大学に移行した。…

【東北大学】より

…仙台市片平に本部をおく旧制帝大系の国立総合大学。1907年6月札幌の農科大学,仙台の理科大学の2分科大学からなる東北帝国大学が設置され,初代総長に教育学者沢柳政太郎が就任,他の帝国大学に先んじて女子学生の本科生としての入学を許可した。農科大学は札幌農学校を移管・拡充して同年9月に,理科大学は11年に開設した。…

※「沢柳政太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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