改訂新版 世界大百科事典 「プロレタリア教育運動」の意味・わかりやすい解説
プロレタリア教育運動 (プロレタリアきょういくうんどう)
広義には,マルクス主義の教育思想に基づいて展開される教育運動をさしていう。プロレタリアート,つまり労働者階級の立場から,学習権の保障など労働者の社会的解放とその人間的発展をめざすもので,資本主義社会においては反体制的な教育運動として,また社会主義社会においては国家の政策および大衆組織の運動として実践される。そのような教育の運動は,19世紀半ばのイギリスにまでさかのぼることができる。当時,労働者階級の子どもたちは,産業革命を経たあとも劣悪な教育環境のために無学の状態に長く放置されていた。労働者は労働組合の結成とその運動を展開するなかで,無償の公教育制度の実現など,教育を受ける権利を主張した。この要求に対して政府は,19世紀後半から公教育制度の組織化をすすめるが,それは国民統合と経済成長の手段として行われたものといえる。しかし,学校は支配階級の〈観念工場〉〈労働力養成工場〉であるとの批判が高まり,ここから人間の全面発達の教育を要求して教育労働者への呼びかけが始まる。1924年こうした立場から教育労働者インターナショナルEducation Worker's International(略称,エドキンテルンEduc-Intern)は,ブリュッセル大会で規約を制定し,〈資本主義によって奴隷化された学校を解放し,人類共同の全所有物のための教養労働所に変転すること〉,教育者の闘争は〈学校における資本主義イデオロギーの力,主として戦争の偏狭愛国主義的帝国主義的讃美と学校の宗教化とに対する抗争であり,民族や国民性の区別を超越しての労農大衆の団結のためであらねばならない〉と目標を規定して,運動を国際的に展開するにいたる。
日本
日本でも第1次大戦後,経済的変動の影響を受けて待遇改善を要求する教員組合運動が各地に起こり,1919年に下中弥三郎を中心とする啓明会が成立してからは全国的な運動に広がった。これを導いたのはまだプロレタリア教育の思想ではなかったが,昭和初年の大恐慌後には教員組合運動が本格化する。まず29年10月,〈小学校教員連盟〉が結成され(この前身である教育文芸家協会は,1929年にエドキンテルンに加盟している),翌30年11月に非合法の〈日本教育労働者組合〉へと発展し,さらに32年には日本共産党の指導下にあった日本労働組合全国協議会傘下の〈一般使用人組合教育労働部(教労)〉となった。〈教労〉は,教育労働者の生活改善の要求を掲げる一方で,迫りくる帝国主義戦争に抗して反戦平和の教育をおしすすめた。こうした教員組合の運動と表裏をなして,同じく30年の8月に合法的文化団体として設立された〈新興教育研究所〉(所長は山下徳治)が,プロレタリア教育の理論化と普及に努めた。その機関誌《新興教育》もまた戦争反対の論陣をはり,軍国主義教育を批判し,さらにピオネール(校外児童組織)の結成を促すなど盛んなイデオロギー活動を行った。しかしこれらの運動に対する当局の弾圧は激しく,〈教労〉のメンバーであることが発覚すれば治安維持法によって処分され,教員免許を奪われるほどであった。33年2月,長野県において多数の教員が検挙され(長野県教員赤化事件。1933年4月までに65校,138人の教員が検挙される),この事件を契機に運動は衰退していった。第2次大戦後は,教育の制度・政策の民主化が行われ,国民大衆自身のための実践がすすめられたが,戦前の運動精神は民主主義教育研究会などの民間教育研究運動にひきつがれている。
執筆者:海老原 治善
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報