山下金作(読み)やました・きんさく

朝日日本歴史人物事典 「山下金作」の解説

山下金作(初代)

没年寛延3.7.2(1750.8.3)
生年:生年不詳
江戸中期の歌舞伎役者俳名里虹。立役の初代山下又四郎門弟,のちにその養子となる。宝永6(1709)年大坂若女形として初舞台。評判記で初めて上上吉の位を得た享保8(1723)年に江戸へ下り,ここでも人気を博した。14年以降は再び上方活躍,養父の死の翌元文2(1737)年に2代目又四郎を襲名して立役に転向した。しかし不評のため2年後に名前も役柄も元に戻した。寛延1(1748)年に引退し,翌年養子に名を継がせた。時代物,世話物,舞踊と,得意芸は幅広かった。2代目は東西で活躍したが,3代目以降は上方の人。いずれも若女形で,明治期の6代目におよんだ。<参考文献>『日本庶民文化史料集成』6巻

(池山晃)


山下金作(2代)

没年:寛政11.9.12(1799.10.10)
生年:享保18(1733)
江戸中期の歌舞伎役者。俳名は里虹,屋号天王寺屋。初代中村富十郎の門人中村半太夫として活動を始める。寛延2(1749)年に,前年引退していた初代金作の養子となり2代目を襲名する。以後,上方と江戸を往来,地芸,特に濡れ事にすぐれた色っぽい若女形として人気があり,後年は女武道や敵役もよくした。当たり役のひとつに八百屋お七があるが,この役で使った笄をかたどった「金作花笄」が売り出され流行した。まるまると肥った大柄な体格に特徴があった。3代目金作はこの人の養子。4代目は幕末に活躍した。その養子に5代目,6代目がおり,金作の名前は明治10年代まで続いた。いずれも若女形である。

(池山晃)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山下金作」の解説

山下金作(4代) やました-きんさく

1791-1859* 江戸時代後期の歌舞伎役者。
寛政3年生まれ。3代嵐三五郎の門人。天保(てんぽう)3年4代を襲名。年増役,世話女房役に定評があり,京坂歌舞伎の大立者となった。安政5年12月23日死去。68歳。大坂出身。初名は嵐三蔵。前名は嵐三勝(3代)。俳名は梅芝。屋号は浜屋,のち天王寺屋。

山下金作(2代) やました-きんさく

1733-1799 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
享保(きょうほう)18年生まれ。初代中村富十郎の門人から初代山下金作の養子となり,寛延2年2代を襲名。女方として名をなした。寛政11年9月12日死去。67歳。大坂(一説に摂津兵庫)出身。前名は中村半太夫。俳名は里虹,里好。屋号は天王寺屋。

山下金作(初代) やました-きんさく

?-1750 江戸時代中期の歌舞伎役者。
初代山下又四郎にまなび,養子となる。大坂で若女方として初舞台をふみ,江戸でも活躍。元文2年2代又四郎を襲名し立役(たちやく)に転じたが,不評のため4年名,役柄とも元に復した。寛延3年7月2日死去。通称は文五郎。俳名は里虹,李紅。

山下金作(6代) やました-きんさく

?-? 幕末-明治時代の歌舞伎役者。
4代山下金作の門人。5代が没したため養子となり,慶応元年6代を襲名。明治13年ごろまで女方として京阪で活躍した。本名は田村金作。初名は山下菊之助。前名は嵐三勝(4代)。俳名は里虹。屋号は天王寺屋。

山下金作(3代) やました-きんさく

?-? 江戸時代後期の歌舞伎役者。
3代芳沢あやめの子芳沢崎太郎または2代山下金作の子(養子とも)の3代山下亀松が襲名したといわれるが,詳細は不明。文化4年(1807)ごろ大坂の中芝居で若女方をつとめた。

山下金作(5代) やました-きんさく

?-1861 幕末の歌舞伎役者。
4代山下金作の養子となり,安政7年5代を襲名。大坂の芝居で女方として活躍した。文久元年死去。前名は瀬川路之助(3代)。俳名は路暁,梅枝。屋号は天王寺屋。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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