歌舞伎の役柄の一つ。歌舞伎の女性の役の総称,および女性の役をつとめる俳優をいう。〈おやま〉ともいう。1629年(寛永6)に徳川幕府が歌舞伎に女優が出演することを禁じたため,能以来の伝統によって男性が女の役をつとめ,現在に至る。女方の演劇的基礎は初期の芳沢あやめ,瀬川菊之丞によって作られた。2人とも日常生活を女性のように暮らし,これが幕末まで女方の習慣となった。あやめには《あやめぐさ》,菊之丞には《古今役者論語魁》所収の芸談があり,2人の名女方の教訓は,長く女方の規範となった。2人の没後,初世中村富十郎はじめ多くの名優が輩出。代々の瀬川菊之丞,4世から8世までの岩井半四郎は女方の名優で,瀬川家と岩井家は,江戸時代を通じて女方の二大名門であった。一座の中で最高位にある女方を〈立女方(たておやま)〉といったが,明治・大正期の5世中村歌右衛門に至るまでは,女方は座頭(ざがしら)にはなれなかった。女方の楽屋は劇場の2階にあり,名目上それを中二階と称したので,女方のことを〈中二階〉とも呼んだ。女の役しか演じない俳優を〈真女方(まおんながた)〉という。女方の役は多岐にわたるが,初期には〈若女方(わかおんながた)〉と〈花車方(かしやがた)〉に大別された。若女方には,遊女(《助六由縁江戸桜》の揚巻),芸者(《八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)》の美代吉),姫(《本朝廿四孝》の八重垣姫),娘(《神霊矢口渡》のお舟)など,花車方には,茶屋の女房の花車(《恋飛脚大和往来》のおえん),片はずし(《伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)》の政岡),奥方(《菅原伝授手習鑑》の園生の前),世話女房(《傾城反魂香(吃又)》のお徳),奥女中(《加賀見山旧錦絵》の尾上),女武道(《彦山権現誓助剣》のお園)などで,身分,年齢,職業などにより違いがある。原則として悪女や老女には女方は扮さないのを習慣としている。これは,老女を演じると色気が失われ,悪女を演じると観客の同情を失うためである。これを見ても,女方の芸術の基本が様式的な美しさを生命とし,貞操を堅固にするという倫理の美しさを追求するものであることがわかる。しかし江戸中期に至り,女方も悪婆(あくば)(土手のお六など)という役柄を開発し,同時に立役が女方をつとめるようになった。あくまでもこれは変則である。
執筆者:渡辺 保
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歌舞伎(かぶき)、新派で女性に扮(ふん)することを専門にする俳優の役柄の称。「おやま」ともよぶ。一般に「女形」の文字を使うことが多いが、語源的には「女方」が正しい。元来歌舞伎は女優を主役にする踊りの芸能だった女歌舞伎として出発したが、1629年(寛永6)に禁止され、以後女性は舞台に立てなくなる。1652年(承応1)に若衆(わかしゅ)歌舞伎が禁止されてのち、若衆の象徴である前髪を剃(そ)り落とし、物真似(ものまね)狂言だけを演ずることを条件に再開が許された。野郎(やろう)歌舞伎である。この時代になり、命じられて「男方」と「女方」の俳優の名を書き出したことから、「女方」という称呼が生まれ、役柄としての確立をみた。女方は、女性の衣装をつけ、手拭(てぬぐい)や頭巾(ずきん)で頭を隠していたが、やがて紫帽子をつけるようになる。劇の内容の進歩に見合って延宝(えんぽう)年間(1673~81)には「かつら」が考案され、女方の芸はいよいよ真の女性の姿態、行動に近づくことを要求されるようになった。女方の祖は、村山左近(さこん)とも糸縷権三郎(いとよりごんざぶろう)とも、また右近源左衛門とも伝えるが、明らかではない。日常生活から女性の心で暮らすことによって女性美を追求し続け、女方芸の基礎を固めた元禄(げんろく)期(1688~1704)の初世芳沢(よしざわ)あやめの功績が大きい。
女方の称を「女性の役」という広義にとれば、実際には「若女方(わかおんながた)(「わかおやま」ともよぶ)」と「花車方(かしゃがた)」とに分かれる。若女方は傾城(けいせい)方、娘方、姫、世話女房、女武道などの役々を含む。花車方は老女方(ふけおやま)のことである。一座の女方俳優のうちもっとも地位の高い者を「立女方(たておやま)」とよぶ。女方の部屋は楽屋では中二階(実際は二階のこと)に設ける習慣だったため、女方のことを「中二階」とよぶことも行われた。幕末以降に一人一役柄の原則が崩れてのち、もっぱら女方だけを演ずる俳優をとくに「真女方(まおんながた)」とよぶことが生じた。男性が女性に扮して写実的な演技をするという本来不自然な性格から、さまざまに演技のくふうが積み重ねられ、世界にも独特な女方演技術が生み出されたのである。古くから著名な女方の名跡には芳沢あやめ、中村富十郎、瀬川菊之丞(きくのじょう)、岩井半四郎らがあり、近代になっては中村歌右衛門(うたえもん)、尾上(おのえ)梅幸らがある。
[服部幸雄]
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「おやま」とも。女形とも。歌舞伎の役柄。1629年(寛永6)江戸幕府が女優を禁止したためにおこり,寛永期の村山左近,慶安期の右近源左衛門らが元祖とされる。万治・延宝期に老役のかか方(のちに花車(かしゃ)方)と区別され,以来若女方とよんだ。当初若い俳優が勤めたが,18世紀中葉以降,年齢にかかわらず専門の職掌となった。特殊な技術を必要とし,芳沢あやめの「あやめぐさ」や初代瀬川菊之丞の「女方秘伝」など,すぐれた芸談・口伝が残る。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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【〈演劇〉という語をめぐって】
〈演劇〉という単語は,たとえば清初に李漁が著した一種の演劇論《閑情偶寄》に用例がみられるように中国語起源であるが,日本語として用いられるようになったのは明治以後,西洋芸術の一表現様態(ジャンル)を前提にしてである。諸橋轍次《大漢和辞典》によれば,〈作者の仕組んだ筋書に本づき,役者が舞台で種々の扮装をなし,種々の言動を看客の前に演ずる芸術。しばゐ。狂言。わざをぎ。歌舞伎。…
…〈おやまぐるい〉ということばは,遊女にうつつを抜かすことである。(3)歌舞伎の女方(おんながた)の別称。女方はまず遊女の役を得意としたところから,この呼称が生まれたという。…
…野郎歌舞伎時代,歌舞伎は演劇への道を自覚的に歩みはじめる。女方の写実的な演技術が模索されるとともに,立役,敵役その他の役柄がしだいに成立して,それぞれの演技のくふうが進む。寛文年間(1661‐73)には〈続狂言〉が成立し,これ以前の風俗スケッチ的寸劇から,一定のストーリーを持った劇的世界を獲得するに至る。…
…以後,女歌舞伎,若衆歌舞伎,野郎歌舞伎と変遷していくなかで,舞や振りという物まね的要素をとり入れて発展させた。そして女方の発生により舞踊の中心は女方に移って,元禄(1688‐1704)~享保(1716‐36)期に歌舞伎舞踊は第1次の完成をみた。この間に右近源左衛門の《海道下り(かいどうくだり)》,水木辰之助の〈槍踊(やりおどり)〉や《七化け(ななばけ)》などが生まれ,《七化け》は変化(へんげ)舞踊(変化物)の先駆をなした。…
…なかでも歌舞伎は,この変装のもつ官能の美と愉楽を最もよくその演劇世界に取り入れて体現した,比類なき芸能であるといってよい。そもそものお国歌舞伎が,当時流行の男伊達(だて)の風俗を〈男装〉によって模したものであったし,のちに政治と宗教の介入から女人禁制となると,いわばその代行として女方(おんながた)が生まれ,これは現代にまで至っている。 歌舞伎の女方の技術は京劇の女方よりも写実性にすぐれ,そのアンドロギュノス(両性具有)的な〈虚構の身体〉によった演戯的変奏の多様性は,おそらく世界に例を見ぬものであろう。…
※「女方」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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