朝日日本歴史人物事典 「山内四郎左衛門」の解説
山内四郎左衛門
江戸初期の薩摩(鹿児島)藩士,国分衆中。隠居の旧太守島津義久に従い隼人城(国分市)に移住。慶長年中(1596~1615)に長崎より伝えられた煙草種を国分郷向花の自宅で栽培しており,慶長11年,服部宗重が義久の許可を得て煙草試作に成功したときに協力。同4年,幕府は煙草作を禁じるが,山内は自宅の一隅に栽培を続け,選種・栽培法を研究。数年後禁令がゆるめられたときには,菜種油粕を用いて優良製品を得る施肥法を考案していた。各地で指導した結果,領内では油粕を第一の肥料とするようになり,寛文のころ(1661~73)には国分煙草の名が全国に広まった。『和漢三才図会』(1713)にも国分煙草の名がみえる。山内の功績は薩摩藩屈指の商品作物である菜種と煙草を関連づけたところにある。<参考文献>日本専売公社鹿児島地方局編『管内在来種の来歴と変遷』
(原口泉)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報