山宮村(読み)やまみやむら

日本歴史地名大系 「山宮村」の解説

山宮村
やまみやむら

[現在地名]甲府市山宮町・湯村ゆむら三丁目

羽黒はぐろ村の西にあり、南は千塚ちづか村。西境あら川が南東へ流下する。枝郷に新田がある(甲斐国志)。「武田家日坏帳」には元亀二年(一五七一)一一月二〇日に位牌が建てられた泰公禅定門に「甲州府中山宮浅利殿ノ為也 永禄十二年己巳十月六日」の注記がある。この人物は永禄一二年(一五六九)一〇月六日相州三増みませ峠において小田原北条氏との戦いで討死した浅利右馬助信種と推定される。信種は同一〇年の信州生島足島神社起請文差出の際の奉行を勤めた武田氏の家臣(甲斐国志)。一方、甲斐守護武田信満の子に当地名を名乗る山宮民部少輔信安がいる(同書)。信種は山宮を居所としていることから山宮氏との関係も考えられるが不明。武田氏滅亡後の天正一一年(一五八三)閏一月一四日武田家旧臣高林又十郎(昌重)に安堵された本領のうちに山宮のうち一貫三〇〇文が含まれる(「徳川家康印判状写」記録御用所本古文書)。同年四月一八日には当地の明王みようおう院領として山宮のうち二貫文が安堵された(「徳川家康判物写」寺記)

慶長古高帳では高九二七石余、ほかに清正(青松)院領一四石余・大明神(現大宮神社)領二石余・明王院領二石余。

山宮村
やまのみやむら

[現在地名]気高町山宮

橋詰はしづめ村の南、逢坂おうさか谷中央部西方の山麓に位置する。南は上原かんばら村。枝郷として田仲たちゆう三軒屋さんげんや篠尾ささお(笹尾)がある(因幡志)鹿野しかの往来が通る。拝領高は一四二石余、本免は五ツ三分。藪役銀一匁六分が課せられ(藩史)、梶浦氏・羽原氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によると家数五一。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高二一五石余、竈数六二。産物には茶・里芋などがあり(因幡民談記)、茶園は近世初頭に鹿野(現鹿野町)城主亀井茲矩が当村の豪農井村(田中)覚兵衛に四八町歩ほどを開かせたことに始まるという(因幡志)

山宮村
やまのみやむら

[現在地名]日高町山宮

頃垣ころがき村の北西大岡おおおか山南麓の神鍋かんなべ溶岩台地上に位置する。江戸時代領主変遷は、天保七年(一八三六)までは宵田よいだ村に同じ。同年幕府領となり(「御用部屋日記」など)幕末に至る。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高一三一石六斗余。寛永一六年(一六三九)の知高帳では高一八四石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では高一三一石余。出石封内明細帳では一三一石八斗余(拝領高一三一石六斗余・改出高一斗余)、ほかに古新発高一石五斗余・新発高二石八斗余。

山宮村
やまみやむら

[現在地名]富士宮市山宮

粟倉あわくら村の北、富士山南西麓の山間に位置する。地内に富士山を御神体とし、社殿をもたない山宮浅間神社がある。同社は富士浅間社(富士山本宮浅間大社)が大同元年(八〇六)に現在地に遷座するまで当地に鎮座していた元宮という(修訂駿河国新風土記)。永禄一二年(一五六九)二月二四日の武田信玄判物(佐野氏古文書写)によれば、武田氏の駿河侵攻に際して降参し、新たに武田氏に仕えることになった佐野惣左衛門尉に富士常陸守分であった「精進川・山宮」のうち六貫文が与えられている。富士常陸守は富士浅間社社人とみられる。天正四年(一五七六)五月九日、武田勝頼は父信玄と同様「精進川・山宮」の六貫文を佐野氏に安堵している(「武田勝頼判物写」同古文書写)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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