山崎の戦(読み)やまざきのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「山崎の戦」の意味・わかりやすい解説

山崎の戦 (やまざきのたたかい)

1582年(天正10)6月13日羽柴豊臣秀吉,織田信孝らが山城乙訓郡山崎付近で明智光秀を破った戦い。備中高松城を攻囲中に本能寺の変を知り直ちに毛利氏講和,6日播磨姫路に帰った秀吉は,摂津諸将を糾合して富田に着陣,信孝らの兵を合わせ,軍を山手,中手道筋,川手の三手に分け13日進撃し,一方これより前に山崎の天王山を占領させていた。光秀は11日下鳥羽に布陣したころに秀吉の進出を知り,細川,筒井氏を欠く劣勢のまま勝竜寺から淀城の間で迎撃しようとし,13日午後秀吉の軍と激突したが,川手の秀吉軍が優勢だったため敗退した。光秀は夕刻勝竜寺城に入り,深夜近江に向かって逃走するところを土一揆に襲われ,山科小栗栖(おぐるす)で殺された。そして15日明智秀満が坂本城で光秀の妻子一族を殺し,重宝を攻囲軍に贈って自殺,秀吉は光秀らの首を本能寺に梟(きよう)した。この戦いは,秀吉が迅速果敢な行動と3対1という兵力差と精神的優越性とによって,終始光秀を圧倒したもので,戦後秀吉の勢威は一段と高まった。
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百科事典マイペディア 「山崎の戦」の意味・わかりやすい解説

山崎の戦【やまざきのたたかい】

1582年山城国山崎(京都府大山崎町)における羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀合戦本能寺の変ののち秀吉は急ぎ毛利氏と和睦(わぼく)し東上,光秀はこれを山崎で迎撃したが敗れ,敗走の途中土民に殺された。秀吉はこの勝利織田信長後継者としての基礎を固めた。→豊臣秀吉
→関連項目筒井順慶天王山洞ヶ峠山崎

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山崎の戦」の解説

山崎の戦
やまざきのたたかい

1582年(天正10)6月13日,山城国乙訓郡山崎付近(現,京都府大山崎町)で豊臣秀吉ら織田信長の旧臣連合軍が明智光秀の軍勢を破った戦。備中国高松城を包囲していた秀吉は,本能寺の変を知るとただちに毛利氏と和睦し,大軍を返して摂津国富田(現,大阪府高槻市付近)で諸勢を結集。光秀は迎撃すべく勝竜寺城(現,京都府長岡京市)に入り天王山を占拠した。6月13日の夕刻から始まった合戦で光秀は大敗,近江国坂本城に逃れる途中,土民の襲撃をうけ落命した。これによって秀吉は,織田旧臣のなかで勢威を高めた。

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世界大百科事典(旧版)内の山崎の戦の言及

【筒井順慶】より

…明智光秀との結びつきはこのころより始まる。82年の山崎の戦に際しては,動揺しつつも結局豊臣秀吉にくみする。このとき洞ヶ峠にて彼が形勢をうかがったというのは後世の潤色。…

【天王山】より

…大阪府との境にあたり,淀川水運や山陽道をはじめ,古くからの水陸交通の重要地点であった。1582年(天正10)豊臣秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦の際には,この山の占有が勝敗を決したといい,一般には天王山の戦とも称され,〈天王山〉は勝敗の分れ目を意味する語となった。山頂には戦後秀吉が居城とした山崎城跡があり,近くに酒解(さかとけ)神社,南側山腹に真言宗宝積(ほうしやく)寺(宝寺)がある。…

※「山崎の戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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