洞ヶ峠(読み)ホラガトウゲ

デジタル大辞泉 「洞ヶ峠」の意味・読み・例文・類語

ほら‐が‐とうげ〔‐たうげ〕【洞ヶ峠】

京都府八幡市と大阪府枚方ひらかた市との境にある峠。標高約70メートル。天正10年(1582)の山崎の戦いで、明智光秀が軍を進め、筒井順慶つついじゅんけい加勢を求めたところ。順慶は兵を動かさなかったが、のちに、ここで戦い観望し、有利なほうに味方しようとしたと誤って伝えられた。
筒井順慶故事から》有利なほうにつこうと形勢をうかがうこと。日和見ひよりみ。「洞ヶ峠をきめ込む」
[類語]うやむや不確か曖昧あやふや漠然おぼろげぬらりくらりぬらくらのらりくらりのらくらぼやかす無節操言を左右にする言葉を濁す煮え切らないどっちつかず要領を得ない小心弱気引っ込み思案気弱内弁慶陰弁慶臆病大人しいこわがり内気怯懦きょうだ怯弱きょうじゃく意気地なし小胆小心翼翼弱腰薄弱惰弱柔弱軟弱優柔不断柔いやわ弱弱しい女女しい弱音を吐く音を上げる悲鳴を上げる気が弱い腰が弱い肝が小さい肝っ玉が小さい苛立つじれる苛つく業を煮やす痺れを切らす歯痒いじれったいもどかしい辛気臭い苛立たしいまだるっこいまどろっこい

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日本歴史地名大系 「洞ヶ峠」の解説

洞ヶ峠
ほらがとうげ

枚方市と京都府八幡やわた市との境にある峠。生駒山地が北に延びた台地に位置し、標高は七〇メートルで、その最高地点は枚方市招提しようだい地区に属する。淀川対岸に天王てんのう山を望む。京都から河内国に通じる東高野街道の峠として、古くから交通の要地であった。

建武五年(一三三八)七月一八日付諏方部三郎入道信恵軍忠状(三刀屋文書)に「六月一日、宇治馳向洞嶺、攻入八幡山城戸口」とみえる。正平七年(一三五二)の八幡合戦では戦略上の重要拠点の一つとなり、足利義詮は南朝軍の本拠である河内国東条との通路を絶つため、「宇治路ヲ回テ木津河ヲ打渡リ、洞峠ニ陣ヲ取ント」したという(「太平記」巻三一、八幡合戦事付官軍夜討事)


洞ヶ峠
ほらがとうげ

高野こうや街道の山城・河内の国境にあり、これより南は河内国である。みなみ峠ともいう。交通・戦略上の要地として中世しばしば陣所が置かれ、争奪戦が繰り広げられた。観応三年(一三五二)三月から始まるいわゆる八幡合戦(正平戦役)の時には、「園太暦」同月二八日条に、

<資料は省略されています>

とあり、「太平記」巻三一「八幡合戦事官軍夜討事」に「宰相中将殿三万余騎ノ勢ヲ率シ、宇治路ヲ回テ木津川ヲ打渡リ、洞峠ニ陣ヲ取ントス、是ハ河内・東条ノ通路ヲ塞テ、敵ヲ兵粮ニ攻ン為也」とある。

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改訂新版 世界大百科事典 「洞ヶ峠」の意味・わかりやすい解説

洞ヶ峠 (ほらがとうげ)

京都府八幡(やわた)市と大阪府枚方(ひらかた)市との境にある峠。生駒山地北部から北へ突き出た標高50~60mの洪積丘陵が京都盆地(山城国)と大阪平野(河内国)とを区切っており,東高野街道が通じ,古くからの交通の要所であった。枚方市峠集落北西を通る現在の国道1号線は,洞ヶ峠を切り込んでいる。《太平記》にもみえる1352年(正平7・文和1)の八幡合戦をはじめ,たびたび合戦の場となったり,陣地が置かれたりした。また,北側の淀川対岸にある山崎および天王山を望む位置にあることから,1582年(天正10)の明智光秀と豊臣秀吉山崎の戦の際,筒井順慶がこの峠から形勢をうかがって去就を決めたという俗説を生み,勝敗の分け目を天王山というのに対し,洞ヶ峠は日和見を意味する語として使用されるようになった。現在,峠の北側には住宅・都市整備公団の男山団地があり,西側には大阪府の企業団地があるなど,付近一帯の市街地化は著しい
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百科事典マイペディア 「洞ヶ峠」の意味・わかりやすい解説

洞ヶ峠【ほらがとうげ】

大阪府枚方(ひらかた)市北東端,京都府境にある峠。標高70m。国道1号枚方バイパスが通じる。南北朝期から戦略上の要所としてみえ,1582年の山崎の戦では,ここに陣をしいた筒井順慶は明智光秀に去就を問われたが,光秀方につかなかった。このことから,形勢を観望し有利な側に味方することを〈洞ヶ峠をきめこむ〉というようになった。
→関連項目筒井順慶

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「洞ヶ峠」の意味・わかりやすい解説

洞ヶ峠
ほらがとうげ

京都府八幡市(やわた)と大阪府枚方市(ひらかたし)との境界にある峠。生駒(いこま)山地から北に延びる洪積層台地にあり、標高70メートル。東高野街道(ひがしこうやかいどう)の峠で、淀(よど)川を隔てて天王山が望まれる。古くから戦略上の要地で、1582年(天正10)山崎合戦の際、筒井順慶(つついじゅんけい)が戦況趨勢(すうせい)をみて去就を決したことから、日和見(ひよりみ)的態度をいう「洞ヶ峠」のことばが生じた。

[織田武雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「洞ヶ峠」の意味・わかりやすい解説

洞ヶ峠
ほらがとうげ

南峠ともいう。京都府南部,八幡市と大阪府枚方市の境にある峠。標高約 70m。元来は東高野街道の峠であったが,現在は北側を国道1号線が越える。天正 10 (1582) 年山崎の戦いの際,大和郡山城主筒井順慶がこの峠に布陣し,豊臣方と明智方の合戦のなりゆきを観望,形勢有利と判断した豊臣方に加わったという俗説で知られ,以後峠の名は「日和見」の代名詞のように用いられている。

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世界大百科事典(旧版)内の洞ヶ峠の言及

【筒井順慶】より

…82年の山崎の戦に際しては,動揺しつつも結局豊臣秀吉にくみする。このとき洞ヶ峠にて彼が形勢をうかがったというのは後世の潤色。以後秀吉に仕えて大和の支配権を安堵された。…

【大和国】より

…明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉の山崎合戦に順慶は光秀の招きには答えず,郡山城で戦局を観望,勝利した秀吉のもとに参じて保身した。出世の恩人の光秀を憤死させた打算的行動が,後日痛罵されて〈洞ヶ峠(ほらがとうげ)の順慶〉と評されるが洞ヶ峠に出陣したというのは虚飾である。 秀吉は近畿随一の大名の順慶を利用するため大和をしばらく順慶に与えたが,85年,政権安定化工作の一環として弟の秀長を郡山城主として大和,和泉,紀伊の3国を支配させた。…

※「洞ヶ峠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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